味覚の凹凸を科学する
ティエリー・マルクスの
哲学と実践
©Mathilde de l'Ecotais
ティエリー・マルクスの
哲学と実践
ティエリー・マルクスは、現代のフランスを代表するミシュランガイド二ツ星シェフ。彼は料理界での活躍のみならず、物理化学者や生物学者との協働でも知られている。どうして、料理には科学的な視点が不可欠なのか。また、食の分野におけるサイエンスの将来的な役割とは。発酵にまつわる日本の食文化への関心や、食料問題の解決に向けた実践について、独占インタビューで明かします。
オーストラリア、シンガポール、タイ……世界中で料理の世界に携わってきたシェフ、ティエリー・マルクス。現在はパリを拠点に活動しているが、日本には何度も滞在したことがあり、柔道の腕前は五段という親日家である。
世界各地でインスピレーションを受けてきた味覚を解体し、さらに革新を加えて構築する。その創造性は、常に人々の感動を喚起させるものとして注目されてきた。一方で、調理を物理的・化学的に解析する分子ガストロノミー*1 について、フランス人物理化学者のラファエル・オーモンと共同研究している。パリでマルクス氏に聞いた。
*1 分子ガストロノミー
物理や化学などの科学的な知識や技術を使って、新たな料理を生み出すことを目指した調理手法や研究分野。分子料理。フランスの物理化学者、エルヴェ・ティスが繰り返した調理実験など、1980年代からの流れを決定づけたのは、スペインのシェフ、フェラン・アドリアによるレストラン「エル・ブリ(エル・ブジ)」への世界的な注目だった。
2006年に出版された『Planète Marx(プラネット・マルクス)』以来のインタビューになります。
どうも、お久しぶりです。
当時、料理界で話題だった分子ガストロノミーを一般人にも向けて分かりやすく出版された世界とは視点を変えて、まずは「発酵」とその将来性についてどうお考えになられているか伺いたいと思います。
そもそも料理は生き物との関係にあります。それには、生き物が育つ土壌も生きていないとなりません。昨今、化学肥料などで生かされている土壌には問題があります。ダイナミックな料理を可能にするには、生き生きとした食品を保ち、土壌も活性化されていないとなりません。微粒バクテリアや微粒酵母菌といった良い菌は味覚を作り出してくれます。つまり微生物の活動は、感動を呼び覚ます起爆剤なのです。
例えば、りんごの酵母菌を使ってパンを作るとします。りんごの皮や果肉の中にあるすべての微生物が糖分に混ざって発酵を始めて、発酵した水分ができ上がります。それを化学物質など一切含まない純粋で良質な小麦に混ぜると、多種の酵母が発生した味覚のあるパンができるわけです。このプロセスはワインも同様です。こうして、想像した通りの味わいのパンが完成するのです。
ただし、酵母を過発酵させると、特殊なまずい味覚に変化していきます。ですから、酵母の働きを調整しながら、味覚に「凹凸(おうとつ)感」を表現しないとなりません。私が最も関心があるのは、どんな料理に、どのような酵母を採用するかです。それには、米、りんご、梨などの異なる酵母を利用したとしても、時間を適切に調整・管理できなければ意味がありません。
つまり、シェフが想像する味覚の凹凸に合わせて、発酵時間を調整されるのですね?
私が調理するというよりは、そうした発酵の時間は微生物による作業なのです。
そもそも調理とは、「素材の切り方」と「正しい味覚」のことを意味します。さらに、炎による「加熱温度」と「時間」です。それによって味覚が大きく変動します。
そして、季節という暦上の時間。日本語で言う“シュン(旬)”ですね。例えば、アプリコットやりんごの収穫期と、その年に製粉された小麦粉を混ぜ合わせたパンは最高の仕上がりになるでしょう。ただし、ここで重要なのは「観察」です。優秀な料理人を目指すのであれば、レシピの良し悪しだけではなく、観察力がより大切なのです。
それはどういった観察力ですか?
レシピは大切ですが、事前に引かれたガイドラインのようなもので、プログラミングされた作業をこなしていく人のための指針です。レシピから解放されて十分に観察ができるようになって、調理が動作、火力とその時間であることを理解すると、「料理をつくる」という立場の意味が、「食材の持つ本来の味を忠実に伝え、心地良さを提供すること」に気づくわけです。
料理とは複雑なものであり、単なるメカニズムの作業では機能しないことを理解していただけると思います。そのような理由で、私はサイエンスに惹かれるのです。先代の方々がすでに実践されていたようにね。
これまで、どんな方々に感銘を受けてきましたか?
ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ*2 は「料理は芸術であると同時に、よりレシピをサイエンスに委ねなければならない」(『Le Guide culinaire(料理の手引き)』第二版 序文より)と1907年に名言を残しています。
一般に料理人は、経験則や空想の世界に生きている職業だと思われがちです。しかし、科学者たちが正確を期するために実験ノートを使うのと同様に、料理人はメニューの再現にミスがないようレシピに従うわけです。
例えば、ジュール・グッフェ*3 は半熟卵の加熱について、次のように言っています。「鍋に2ℓの水を入れて、沸騰したら火を止めて卵を入れ、5分間徐々に温度を下げていくと完璧な半熟卵が完成する」(卵白は62℃以上、卵黄は68℃以上から凝固。卵黄は80〜85℃を超えると過剰に凝固し、徐々に離水するため、100℃の高温で茹でるのは避けたい。『現代フランス料理科学事典』より)。このように、先代から料理の世界には科学的根拠が浸透していたのです。
今日の料理に重要な影響を与えたのは、化学者であり哲学者、経済学者のアントワーヌ・ラヴォワジエ*4 や発明家のニコラ・アペール*5 も然りです。発酵の発見で料理に革命を与えたパスツール*6 は「低温殺菌法」も発明しています。
*2 ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ(1846-1935)
フランスの料理人。レストラン経営と料理の考案・レシピ集の著述を通じて、伝統的なフランス料理の大衆化・革新に貢献した。厨房の各セクションに部門シェフを置くシステムのほか、現代にも伝わるレシピの数々や高いコック帽の考案など、後世に大きな影響を与えた。
*3 ジュール・グッフェ(1807-1877)
フランスの料理人、菓子職人。1867年の著書『Livre de Cuisine(料理教本)』において、フランス料理で初めて正確な分量表示をしたとされる。他の著書に『Livre de Patisserie(製菓教本)』『Livre des Conserves(保存食教本)』がある。
*4 アントワーヌ・ラヴォワジエ(1743-1794)
フランスの化学者、哲学者、経済学者。「質量保存の法則」の発見や、燃焼の研究の過程で「酸素」を命名したことで知られる。1789年の著書『化学原論』では、現在の元素に相当する33の単一物資を示した。貴族のラヴォワジエはフランス革命で処刑された。
*5 ニコラ・アペール(1749-1841)
フランスの食品加工業者、発明家。殺菌と密封による食品の保存(アペール法)に成功したことから、「瓶詰の祖」とされる。
*6 ルイ・パスツール(1822-1895)
フランスの生化学者・細菌学者。牛乳、ワイン、ビールの腐敗を防ぐ「低温殺菌法(パスチャライゼーション)」を開発。アルコール発酵が酵母の働きによること、また酢酸発酵が別種の微生物の働きによることを確認。発酵が微生物の働きであることを発見した。また、弱毒化した微生物を接種することで感染症への免疫が得られるという発見から、ワクチンの予防接種法を開発。狂犬病ワクチンなどを発明した。1887年パリに「パスツール研究所」を設立、現在も微生物の研究・教育の国際的拠点になっている。
どのようにして「正しい味覚」が生まれるのですか?
実は、正しい一つの味覚は存在しません。なぜなら、文化・教養や社会層によって味覚の捉え方は全く異なるからです。地球上の地理的な条件や社会的な環境によっても異なります。教養が低い方は、量と単純な味覚を欲します。教養レベルの高い方は、料理を目で愛でてからいただくことを知っているのです。
私は、ライ麦入りのパンが好きです。とても酸味の強い、あの黒パン。時間が経つほどに興味ある味に変化していきます。しかし、田舎に住んだことがない、もしくはライ麦パンを知らない人にとっては、パンは白いものだと言います。黒パンは貧乏人が食べるものだと。
チョコレートも同じことが言えます。私はチョコの愛好家ですので、例えば試食するときには「ブラックで強みを感じるタンニンをしっかりと含んだものを。ベネズエラ産やブラジル産といった産地別のカカオの配合量の違いを楽しみたい」と希望します。しかし、チョコレートに甘さだけを求める人であれば、産地は関係ないことなのです。つまり、カカオより糖があればいいと思うように。このように、味覚は教養によって大きく異なるのです。
「禽獣は喰らい、人間は食べる。教養ある人にして初めて食べ方を知る」
これは、ブリア=サヴァラン*7 が残した名言です。
日本の人たちにとって、最も美味しいカツオ出汁はどれですか? 母親や知り合いの料理人の味でしょうか。それとも、地域性を強く感じさせる味でしょうか。私の経験に照らせば、瀬戸内海のカツオを使えば、脂も乗っていて燻製度もある。もっと南部(太平洋沿岸)のカツオであれば、栄養素を多分に含んだ味覚でありながら、風味自体は薄いです。
世界中で嗜まれる「お茶」も良い例です。私は焙じ茶が大好きなので、ある実験をしました。ウィスキー樽でお茶を焙じてみたのです。焙じ茶が苦手な方でも「この風味は何ですか?」と関心を寄せました。きっと精神に働きかけるのですね。味覚を定めるには、自分が生きていく過程で「味覚が変化することを容認できるか」が大事です。
*7 ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン(1755-1826)
フランスの法律家、政治家、美食家。1825年に食にまつわる著名なエッセイ『美味礼讃』を出版。原題は『味覚の生理学、あるいは超越的美食学をめぐる瞑想録;文科学の会員である一教授によりパリの食通たちに捧げられる理論的、歴史的、時事的著述』と非常に長い。
シェフにとって「美味しい味」の定義とは?
私は貧しい家庭に育ちました。芸術を知りませんでしたし、興味もありませんでした。12歳頃だったか「これはゴッホの作品」と見せられましたが、正直「下手くそな絵だ」と思いました。しかし、作家の意図や作風を知っていくことで、今では異なる観点を持つようになりました。
それと味覚も同じです。その人の分析力と、「美味しい味覚」を見つけ出す能力が必要です。私たちはトマトの味についてよく議論します。おばあちゃんの家で食べたトマトなのか、真夏のイタリアで食べたあの味なのかと。つまり、味には固定した定義がなく、食材の持つ本来の味に着眼することが肝要です。私がトマトのサラダを作るときは、「どんな些細な凹凸を加えれば、そのトマト本来の味を心地よく感じてもらえるのか」に挑戦するわけです。
味覚はとても繊細です。そして、脳と記憶に結びついているのです。おばあちゃんの家で食べたトマトが美味しいと思い出せるのであれば、幸せであった時代に直結するのです。味覚は主観的な観点なので、地球上に人間がいる数だけあり、多様だと言えます。他人が感じる「まずい」を「美味い」と感じるようにね。味覚とは、刻印されたものではありません。人間の知識と教養が、味覚を深めていってくれるのです。旅をして、移動することで、人の味覚は変化していきます。
では、日本で出会った味覚で印象に残っているものはなんでしょうか。
1988年に初めて日本に訪れたのは、柔道の研修のためでした。滞在先の日本人家庭で納豆をいただいた瞬間のことを今でも忘れません。「なんと気持ち悪くてまずい。なんのために存在するのだろう?」と完全に拒否しました(笑)
それからしばらくの間、何度となく訪れた日本で納豆をいただく機会が度々あり、「これは発酵や粘り気が違う。なぜだろう?」と不思議でした。ある日、とうとう「これは美味しい」と思える納豆に出会いました。
そこまで拒否された納豆を、なぜ美味しいと思えたのですか?
それは「文化」を理解していったからです。「どのように食べるのか?」ではなくて、「なぜ食べるのか?」に気づいたからですね。豆腐もそんな食品の一つでした。
どのように食べるのかを追求するのであれば、胃袋を満たすだけ。しかし、なぜ食べるのかを理解すると、身体と精神が満たされます。プラトン*8 も語ったように、量ではなく、食べるための「知識」が味覚を左右するのです。
*8 プラトン(BC427 - BC347)
古代ギリシャの哲学家、レスリング選手。『ソクラテスの弁明』『国家』など、多数の著作で知られる。「知識(エピステーメー)」を主題にしているのは、対話篇『テアイテトス』。
絶えず料理の革新に専念されていらっしゃるなかで、ご自身の「CFIC Orsay(フランス料理イノベーション研究所、以下CFIC)」の活動についても伺えますか?
CFIC は、2010年にハーバード大学とオルセー大学の協力(物理化学者のラファエル・オーモンとの協働)のもとに立ち上げられた、食料イノベーションを掲げた多領域の大学研究組織です。現在、所蔵する19世紀初期から20世紀のレシピの膨大な文献や資料の分析をR&D(研究開発)部門で進めています。同時に、土壌学や農芸化学など、あらゆる領域のサイエンスが将来に与える影響も検証しています。
なぜ、私が料理業界から外に出たかと言えば、異なる視点を持つためにほかなりません。サイエンスを介して「2050年の料理やガストロノミー(美食)の在り方」を模索する狙いです。今日では2050年はさほど遠くには感じられませんが、食料に携わるさまざまなアクターを想定してみるわけです。
私たちは、ガストロノミーの領域以外でも食に携わっています。もちろん、ガストロノミーは食のエリートによる夢のような世界ですが、食料については地球規模で考えないといけません。
今日の科学者全員が懸念するのは、地球の水不足です。将来、同じ条件で家畜の飼育のために水を利用していると、ほどなく限界に直面します。ですから、2019年にすべてのレストランがフレクシタリアン*9 の料理を提供しないとなりません。それは、原料を植物性80%と動物性20%に抑えた料理思考にしていくということです。
水を消費する家畜の摂取も制御し、海も荒らさない。食べる量は減っても、質を上げるということです。さもないと食料バランスは崩れ、貧しい人々は代用食しか与えられず、富裕層だけが残された食料を食べるということになります。
こうした環境を想定してリサーチを進めるのがCFICの役割です。冒頭でも申し上げたように、土壌を健康な状態にしてあげること。それには、農業モデルを見直すことです。土壌を疲れさせないように、生産量を減らして質の向上を図る。現在でも有機栽培やパーマカルチャーによって栽培されたトマトは味が良いです。一つ食べただけで、その味覚に満足させられます。
しかし、集約農業から栽培された食料では、量を摂取しないと満腹感が得られません。これからは若手の調理人にも「食べるという行為は、社会や環境にもインパクトを与えることだ」と教えないとなりません。
ヒトという種は地球上で肉体的進化を果たしたため、これ以上はサイズが大きくならないとされています。他の素材で必要な栄養素を得られるのなら、今日の子供を育てるのに肉と魚は(現在の消費量換算比で)週1回食べさせるだけで十分に成長していくのです。
これはCFICのメンバーである生物学者のジル・ブフの定理でもあります。彼がCFICに携わっているのは、あらゆる規模の農業生産者たちと食に関する職業に従事する人々に向かって、消費について見直すよう警鐘を鳴らすためです。このように、私たちは多領域の観点から食料の全貌を見渡すことが可能になるのです。
具体的に、CFICではどんな研究がなされていますか?
例えば、「FEED BIO」というフードバー(現在は粉末飲料タイプも開発)を考案しました。食材を加熱ではなく冷却(フリーズドライ)により加工したもので、CFICの研究所でも生産できます。ある日の列車でボルドーとパリ間を移動中、最低でも20種以上の化学調味料で調理されたサンドウィッチを食べるべきか躊躇した時に思いつきました。
これは、空腹時にレストランへ行く時間がない場合の代用食です。食事に代わることはできないものの、人体の栄養バランスを補ってくれます。「料理人の手がけるべき仕事なのか」という意見も多かったですがね。忙しい日常の合間にスポーツをしても、化学調味料入りのサンドウィッチを食べていては、流した汗が台無しだと思いませんか?
また、フランスではトマトが多量に収穫されすぎて困るような時もあります。他の動物に与えるにもトマトソースを生産するにも限界はあります。CFICの科学者たちは、トマトを構成する90%が水であることから、30tのトマトを遠心分離機にかけて25tの飲料水が搾れることを立証しました。この水は農業に利用することも、飲料水としても使えるのです。こうしたアイデアが成立していけば、地球上のゴミは限りなくゼロになっていくでしょう。すべての廃棄物が材料になり得るのですから。
私の立場では、調理場のスタッフにこれらの道理を教えていかないとなりません。レストランで調理する際には平均25%のゴミが排出されますが、これが常識となってはいけないのです。人々は食料の消費についてもっと学ばないとなりませんね。
CFICの活動範囲は広いのですね。
CFICは大学機関なのでフランス国民教育省の管轄ですが、外部から情報や人を取り込める環境です。最近では、私たちの研究に関心を寄せる外科医がいます。医療の現場には、止血用のゲルが存在します。命を救えるものですが、体内に入れるには好ましくない成分も含んでいます。そこで、海苔を成分にしたゲル化剤の研究を続けてきた私たちに共同開発を依頼してくるわけです。
また、コスメティック産業も私たちに大きな関心を持っています。口から栄養を補給できるのと同じく、皮膚からも栄養を補給できることからです。今から10年前ほどのナイトクリームでは、謳われている効能とは裏腹にどれだけの有害物質を含んでいたかと思うと想像を絶します。
*9 フレクシタリアン
柔軟な(フレックス)+菜食主義者(ベジタリアン)の造語。基本はベジタリアンでありながら、場合によって魚や肉も食べるという、柔軟な食の選択をする志向性をいう。
フランスと日本における料理の差もしくは共通性をどのように感じますか?
「発酵」に関して言えば、両国は共通しているでしょう。どちらも発酵技術に長けています。日本は中国と韓国にも影響を受けた後、長い鎖国時代を経ましたよね。限られた資源と徳川幕府による内生経済が義務づけられた時代、保存のための発酵技術を発展させただけでなく、各々の地域が食の分野で秀でるためにその能力を養った。私が日本に魅了される理由の一つです。
今日、最高の発酵技術は日本にあると思います。味噌、出汁、漬物、日本酒、ウィスキーやパン。パンに関しては、発酵の技術が古来よりあったわけですから、酵母を入れる加減なども難なくクリアできたのです。
また、日本料理は盛り付けと味覚を抑制することに成功しています。さらに食べ物が満腹感を与えるだけではなく、精神性をもたらします。発酵させるための樽の材質も、香り付けを考えて検討するなどの配慮がなされていますね。日本には最高のものを抽出する能力があると思います。決してひいきの国を賞賛するために言っているのではありません。
ただ、さまざまな日本の食を今日まで経験してきて、一つだけ苦手な味覚があります。それはバターを代用したマーガリンで、日本独特の味覚です。しかし、日本を訪れたフランス人はマーガリン入りのブリオッシュが「美味い」と絶賛するのです。バター入りのブリオッシュを普段から食べ慣れているフランス人が、なぜ日本のマーガリン風味を美味しいと思えるのか、私からすれば不思議です。このように、人の味覚のカーソルがどの指標に置かれるのかは興味深いですね。
そうは言っても、味覚を建築的に構築する能力は、やはり日本が世界のトップだと思います。以前にシェフのジャック・マキシマン*10 と仕事をしました。日本では料理を「目で愛でてからいただく」と言いますが、マキシマンも料理を「輝き、色彩、香り、風味」だと表現します。つまり、味が順番の最後。まずは食材の放つ輝きが食べる人を魅了しないとならないと考えるからです。日本では、仮に安価な食べ物を購入したとしても、盛り付けや量が適切で、綺麗です。
日本にはフランスのビストロに似た家庭料理を出す居酒屋があると思えば、社会のエリートが集う懐石料理店もあります。ただ、日本人全員が懐石料理を理解しているとは思えません。私は贅沢にも、恵まれた環境で懐石と寿司の研修をさせていただきました。その経験から、同じ素材を扱う寿司屋でも、それらが回転寿司と何が違うのかを理解させてもらいました。同じ「トロ」であっても、何を食べて育ってきたのかといった知識と教養が、味覚を目覚めさせてくれるのです。
最後に、シェフが将来に託されているお考えを伺わせてください。
私がこの業界で仕事を始めた1990年当時、前菜、メイン、デザートのメニューはどれも5品目はありました。これは多大な浪費です。現代のメニューはHQE*11、つまり「高品質の環境基準」を目指さなければなりません。一つの方法として、農業生産者にもグリーンラベル制度を推進し、環境にとって適切な生産技術や方法を共に考えていくことを検討しています。
重要なのは、何を食べるべきか、どんな地球であって欲しいか。もっと健康に食べて、健康な地球にしていくことだと思うのです。
*10 ジャック・マキシマン
1948年生まれ、南仏ニースを拠点にするフランスの料理人。
http://www.jacquesmaximin.com/JMcarriere.html
*11 HQE(High Quality Environmental standard)
フランス発祥の建築指標で、環境への配慮や持続可能性についての条件を満たした建築物に与えられる。1992年の「地球サミット」を機に発足。
ジャーナリスト。翻訳・通訳家。東京生まれのパリ育ち。インテリア、プロダクト、環境デザインEcole Camondo卒業。建築、デザイン、アート、産業、工芸などの「ものづくり」の現場を横断的に考察し、日本とフランスの専門誌に寄稿。教育・文化プログラムの企画、プロデュース、コンサルタント業も行う。共著『リージョナル・デザイン』では日仏の大学ワークショップ体験を綴る。フランス人間国宝の特殊技術を日本市場に普及させるプロジェクト・マネージングも手掛ける。
NATURE & SCIENCE 編集長。コンピュータ誌、文芸誌、デザイン誌、カルチャー誌などを手がけてきた。「常に新たなことに挑んでいるマルクスさん。先日は日本のどら焼きに着想を得たというストリートフード店『marXito』をフランス人デザイナー、オラ・イトによる空間でオープンしたそう。行ってみたい!」