精霊の頂、
マナスル山行記①
写真・文/上田 優紀
ヒマラヤの高峰をメインのフィールドに活動している、フォトグラファーの上田優紀さんによるマナスルの山行記を短期連載でお届けします(全5回)。第1回は、カトマンズからベースキャンプにいたる道のり。高度とともに刻々と変わっていく風景を、ファインダーが捉えます。
標高8,000m、デスゾーン。世界中のクライマー達から「死の領域」と呼ばれる世界。人間はそこにいるだけで刻一刻と逃れようのない死へと向かっていく。そんな、決して人間が足を踏み込んではいけない神々の世界をひとり歩いていく。
露出した肌は凍りつき、着ているジャケットには氷柱が垂れている。体感気温はマイナス30度まで下がり、凍傷で痛かった指先はしばらく前から感覚さえない。踏み出す一歩は酸素ボンベを使っても、とてつもなく重い。肺は握り潰され、心臓を打つ鼓動は今にも止まってしまいそうなほど苦しい。それでも、ひとつの頂点を見つめ、わずか数センチしか踏み出せない足取りで、僕は這うように斜面を登っていった。
ただ一点、マナスルの頂を目指して。
マナスル。標高8,163m、ネパール中央部に鎮座し、世界第8位の標高を誇るその山は「精霊の山」という意味を持つ。世界に14座しかない8,000m峰のひとつで、1956年、日本隊によって初登頂が成された。そのマナスルを登る。1年前、ヒマラヤの難峰アマ・ダブラムを下山している時、次は8,000m峰へ、という想いが芽生えた。
もっと遠くへ、まだ見たこともない世界へ。想像もできない風景を自らの足で歩き、撮影したい。尽きることのない未知の世界への好奇心に突き動かされ、2019年秋、僕は1年ぶりにネパールを訪れた。
モンスーンの終わらない9月、混沌の都カトマンズから車が通れなくなるまでジープで移動し、山間部にある小さな村からマナスルを目指す長い旅がはじまった。毎日のように雨に濡れ、崖崩れした峠を超え、ネパール深部のチベット国境沿いを歩いていく。
5日ほど進むと標高は3,500mまで上がり、最奥の村サマゴンまでやってきた。サマゴンはマナスル登山の起点となる村で、ゴンパと呼ばれる僧院には多くの人たちが集まり賑わっていた。子供達の遊ぶ声が響きわたり、緑が溢れ、花が咲き誇るこの豊かな村にいると、今から自分が世界でも有数の過酷な領域に挑戦することが、どこか他人事のように思えてくる。
サマゴンを出発し、氷河に沿って登っていくと、草木もない岩と氷の無機質なベースキャンプが見えてきた。目の前にはマナスルから落ちる氷河が広がり、絶え間なく雪崩の音が響いている。ここにテントを張り、約1カ月間かけてその頂を目指していく。
必ず超えなければいけない困難な壁、8,000m峰。これは自分の可能性を探る旅、そして生きていく意味を見出す旅。氷河の先にあるマナスルは雲に隠れてまだ姿を見ることはできないが、それでも想い続けた未知の領域を前に心は高ぶっていった。
( Story 2 Base Camp – Camp 1 へつづく)
1988年和歌山県出身。写真家。京都外国語大学卒業。大学卒業後、世界一周の旅へ出発。45カ国を周る旅から帰国した後、株式会社アマナに入社。2016年よりフリーランスとなり世界中の極地、僻地を旅しながら撮影を行っている。現在は主にヒマラヤの高峰をフィールドに活動しており、2018年10月にアマ・ダブラム(標高6,856m)、2019年9月にマナスル(標高8,163m)登頂。2020年春にはエベレスト登頂を目指す。2017年CANON SHINES受賞。2018年キヤノンギャラリー銀座、名古屋、大阪にて個展開催。
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