世界の肌を探求し、
見えてきた未来
シリーズ・企業探訪⑥
ロレアルグループ
©L’Oréal
シリーズ・企業探訪⑥
ロレアルグループ
人類学を広義な観点から考察し、フランス国立科学研究センターが研究を続けるパリ人類博物館。今年、ロレアルグループの協賛で開催された「私の皮膚の中(Dans ma peau)」展は、生物学的に皮膚を分析して紹介するだけでなく、最先端の研究を伝える試みだった。展示に携わった3人の研究者に聞いた。
エッフェル塔を背景に建立するシャイヨ宮内の一部にある人類博物館は、1937年のパリ万国博覧会の際に設立された。数年間におよんだ大改修工事を終えて、2015年にリニューアル。人類学を広義な観点から考察し、フランス国立科学研究センターが研究を続け、その成果を披露する場として一般来場者も迎えている。
ロレアルグループの協賛によって開催された「私の皮膚の中(Dans ma peau)」展(2019年6月3日まで)は、皮膚を生物学的に解説するほか、「Piercing(ピアシング)」をテーマに文化的な側面からも紹介した。
成人の人体を覆う皮膚の面積は、1.5〜2m2であり、1枚のベッドシーツに等しい。重量は3〜5kg。全体の7割は水分で構成され、体内にある水分量の5分の1が蓄えられているという。
展覧会はこうした内容を伝える9つのテーマから構成された。そのうち、革新的で将来的な発展性を感じた3つの研究に焦点を当て、それぞれの専門研究員に話を伺った。
展示空間で紹介されているマシンの名称と機能を教えてください。
これは「クロマスフェール(Chromasphere)」と言います。15年ほど前に、ロレアルグループが肌の色を明確に測定するため、デザイン意匠を考案したものです。
このマシンの強みは、どんな環境下でも同じ条件での測定を保証できる点にあります。内部に設置してあるのは、特殊な照明です。これによって、均一に拡散する光の環境を再現できるので、光沢や影に影響を受けずに測定できます。私たちが特許を得ているイノベーションは、カメラの口径にあります。
今回、基本となる66の肌色を表現したチャートを展示しました。これは肌の色に合ったファンデーションを知るために便利なものですが、他の業界からも需要があります。
こうした研究の需要は、どのようなところにありますか?
測定したデータベースは、コスメティックだけでなく、ファッション、自動車産業など、ターゲットとなる消費者について知るため、商品化前の評価を得る道具として利用されています。
ロレアルグループの研究所には、1日に200人の被験ボランティアが訪れ、これらマシンによるテストと並行してアンケート調査をしています。マシンのデータと生活者の感覚や感知の統計から、市場に商品が誕生する手助けをするという流れです。
それらのデータはどのように管理されているのですか?
クロマスフェールが測定したデータはデジタル化され、蓄積されていきます。世界各国に設置することで、データの共有と比較を可能にしてくれます。今後は世界の人々の肌をよりポイント的に調査することで、類型的な分析が可能になっていくことでしょう。
所属されるチームの研究についてお話を伺えますか。
私のチームでは、肌へのダメージを防止する方法と、肌細胞の再現を研究しています。シワ、シミ、病的、老い、いわゆる通常の状態ではない肌の再現研究に専念しています。
皮膚の再現には「バイオプリンティング(BioPrinting)」という3Dプリンターを使われているそうですが、通常の3Dプリンターとはどこが異なるのでしょうか?
機能的には類似したものです。バイオプリンティングではプラスチックやメタルに代わって「生体インク」を使用します。これは、細胞を生かしたままの状態にしておけるハイドロゲル*1で、細胞の栄養分となります。
さらに、レオロジー*2で言えば、細胞を維持する物理的特性を有し、立体をつくり出せるという物理的特性を持っていないとなりません。
*1 ハイドロゲル
水分を含んだゲル(高粘度のゼリー状分散媒)。ヒドロゲル。
*2 レオロジー
物質の変形と流動一般を研究する物理学の分野。固体、液体、気体のように単純な力学的性質を持つ物質ではなく、固体と液体の中間の性質を持つような複雑な物質(プラスチック、ガラス、アスファルト、粘土など)を扱う。流動学。
皮膚は、大きく以下の複数層から構成されています。
・表皮(身体と環境の境。異物の侵入や水分の蒸散を防ぐ)
・真皮(弾力とハリ感を与える。毛細血管と神経が走る)
・皮下組織(断熱と保温。皮下脂肪を蓄える)
バイオプリンティングでは、線維芽細胞*3とコラーゲンで構成される真皮をプリントします。使用する生体インクには、コラーゲンなど生体要素が含まれています。もちろん、線維芽細胞も生きた状態のまま、ハイドロゲルに栄養を補給してもらいながらプリントされていくのです。こうして立体感のある皮膚を再現します。
*3 線維芽(せんいが)細胞
結合組織を構成する主要な細胞の一つで、塩基好性を示す。真皮中にあり、肌の弾力性を保つコラーゲンやエラスチン、ヒアルロン酸といった成分をつくり出す。加齢や紫外線によって衰えると、それらの産生能力が低下していく。
従来の再現医学では再現できなかったことを、バイオプリンティングは可能にしていきます。ただ、現在は「老いた肌」の再現にはまだ成功していません。若い人の肌は表皮と真皮の間に微妙な凹凸があるのに対して、老いた肌ではここが平らなのです。
皮膚の再現自体は、バイオプリンティングの登場前にも研究者が手作業でやられていたのですよね。
そうです。人間の手では不安定さを伴いますが、ロボットは確実に精密な作業を繰り返し、手作業では不可能な、均一にコントロールされた凹凸を再現できます。
バイオプリンティングの開発を開始して5年が経ちますが、当初は気づかなったことも教えてくれました。初めは肌と同一の分子成分だけに着目していたのですが、皮膚を疑似的に再現する新たな成分を科学者たちと考えるきっかけを生んだのです。
通常、科学者たちはピペットを使って細胞を採取して置いていきます。それに対して、バイオプリンティングでは圧力を与えながら進行する、いわば「注射器」のような作業です。つまり、細胞は圧力による負荷をかけ続けられているわけで、そのストレスに耐えなければなりません。
こうした負荷に耐えられる生体材料を模索する過程で、生体メカニズムと生体適合に応えられる、それまで予想しなかった材料の採用につながりました。
実質的にバイオプリンティングが稼働できるキャパシティーはどのくらいですか?
1日に40cm2が可能です。これは手作業による肌の再現の10倍のスピードです。念を押したいのが、プリンターのボタンを押せば「完全な肌」ができ上がるのではありません。あくまで、コラーゲンなどを疑似化した真皮の「再現」です。
複数層のケラチノサイト*4の一層をプリントした後、生物学的に成長させる必要があります。
ケラチノサイトを空気にさらすと、変化が起こります。放置しておくと免疫学的なプロセスが埋めに来てくれ、細菌に感染していないことを確認したうえで、移植される修繕用の皮膚ができるのです。
ラボでも同じことをしています。表皮に一層のケラチノサイトをプリントし、その後の再現では、所定の生物学的な作業にしたがいます。手動でもプリンターでも、生体条件として費やす時間は同じです。
*4 ケラチノサイト(Keratinocytes)
人間の表皮の90%以上を占める細胞。角化細胞。真皮に接する表皮の基底層で生まれ、少しずつ形や性質を変えながら、有棘(ゆうきょく)層、顆粒層へと細胞分裂によって徐々に押し上げられ、2週間ほどして一番上の角質層に到達した細胞が角質細胞になる。
昨今、腎臓をプリント再現した企業がありましたが、人間のすべての臓器は無数の細胞から構築され、他の臓器や細胞と交信している複雑なものです。機能可能な臓器を即プリントすることは、まだ不可能です。
今日バイオプリンティングを駆使した真皮の再現と表皮の培養には、4cm2〜50cm2の面積の再現に15日〜21日間を要します。バイオプリンティングが忠実に真皮を再現することができたとしても、表皮を完成させるのは「自然の摂理」だということを忘れてはなりません。
現段階では実験と研究のみの用途ですか?
ええ、まだ研究段階にある新しい技術です。現在は皮膚ではなく毛包*5 を再現するプリンターをフランスの企業と共同開発しています。髪を発毛させる器官を培養するのが目的です。
*5 毛包(もうほう)
体毛がある哺乳類の皮膚にあり、毛根を保護し、毛の伸長の通路となる器官。皮膚面に対して斜めになっているのが特徴。成長した毛は一定期間後に抜け替わり、毛包幹細胞や毛母細胞の増殖、分化によって再び産生される。毛嚢。
皮膚用途の技術を改善していくには、皮膚の凹凸、シミや老いた皮膚を再現する必要があり、それに適合する安定した生体インクが必要になります。技術の商業化や産業化までには、まだ時間が必要です。
技術が産業化を迎えると、道徳的な側面が問題視されるものでしょうか。
そもそもロレアルグループは、あらゆる研究で動物へのテストを廃止*6している企業です。
私たち研究者は生体材料や細胞を扱って研究していますが、病院と契約を交わし、手術後の廃棄物が研究所に送られて来ます。その生体組織検査から、細胞を区分して培養し、冷凍保存しています。皮膚の再現では、それらを解凍して実験に使用しています。
現在では、生体材料を使ったバイオプリンティングを人間に適用する場合、管轄の責任者や官庁の許可が必要になります。他人の細胞では適合性の有無があるのに対し、幹細胞*7 は拒絶度を削減するとされているので、世界中に共通する皮膚を再現できるようになるには、幹細胞を取り入れる方向も可能性としてあるでしょう。
ただ、バイオプリンティングはあくまでも手段の道具であって、技術の追求が最終目的ではないことを強調しておきたいと思います。
*6 動物へのテストを廃止
ロレアルグループは「動物実験を伴わない美の創造」(animal-free beauty)という信条に則り、1989年以降、製品に関する動物実験を全面的に廃止しているという(一部の国において、化粧品の安全性保証に動物実験が法規上義務付けられている場合、また製品の成分に関してあらためて安全性を証明する必要が生じ、必要な実験が義務付けられた場合など、代替法が存在しない場合を除く)。加えて、動物実験した製品や原料の販売を2013年3月11日以降に禁止した「EU化粧品指令」の遵守も謳う。(参考:ロレアルグループの安全性への取り組み)
*7 幹細胞
自己複製能と多分化能(さまざまな細胞に分化できる能力)を併せ持った細胞。ES細胞(胚性幹細胞)、成体幹細胞、iPS細胞(人工多能性幹細胞)が代表例。
現在、取り組まれている研究について教えてください。
人体の粘液や粘膜のある部分には、人間がこの世に誕生した時点から微生物が存在し、成長とともに変化していきます。私たちは、微生物の手助けなくして生きられません。
例えば、抗生物質の治療を受けている微弱な免疫力の子どもは病原菌に弱いです。健康な人間は、これらの微生物が抗菌剤を分泌してくれているのです。さらに、肌からも抗菌成分を分泌させるよう促進してくれることで、感染から守ってくれます。
最近の発見では、密着結合と瘢痕(はんこん)*8化との関連が挙げられます。これらの変化は肌を守るだけではなく、強化する効果もある点に着眼しています。
*8 瘢痕(はんこん)
外傷が治癒した後、肉芽組織(新生毛細血管と収縮能を持った繊維芽細胞が主体)の形成を経て、皮膚に残る変性部分。
日々の研究課題には、どのようなものがありますか。
ポイントは、微生物から出るどんな分子が肌の機能を促進しているのかを見極めることです。バクテリアがどのように肌に棲息し、肌の形成にどのように参加しているのか。さらに、肌質による差異や、プロセスのかけ引きをする要因などが見えてくると、バクテリアの有無を疑似化して再現できるようになります。
ロレアルグループには、皮膚の細胞と細菌叢の研究に50名ほどが従事しています。世界の地理的な人口分布と肌質における臨床的な研究をしています。
例えば、「フケ」が生じるのは、頭皮の微生物叢のバランスが崩れることが原因です。異なる人種の肌質からフケの発生や頭皮の老化を知るため、ブラジル、中国、インド、フランスなど、多くの地域の人々を常に観察しています。
一方、ラボの中では、人工組織によって再現された人工の肌に対して、バクテリアがどのように反応するかも実験しています。このように、研究結果から導き出せる仮説を立証していくことも行っているのです。
ところで、成人した人間の皮膚には、数にしてどれくらいのバクテリアが棲息しているのですか?
私たちは個体数ではなく、種の多様性を数えていますが、およそ500~1,000種類がいると言われています。現在より緻密な測定が可能になれば、もっと多様なバクテリアの存在が判明するでしょうね。
環境や気候に応じて、バクテリアの多様性は変化するのでしょうか?
年齢に応じて変化します。成人で安定し、60歳頃から多くなっていきます。季節や環境の変化も、バクテリアの多様性に影響すると言われます。
都市部の大気汚染による影響はありますか?
まさに現在、私たちが関心を寄せている研究です。大気汚染にさらされると、外部からの微粒子や微生物によって、皮膚の細菌叢が乱されていくのです。
今後の研究テーマで挑戦されたいことは?
細菌叢をコントロールすることです。現在は自然に変化していく様子を観察しているだけですが、それらの多様性を維持することを可能にしたい。細菌叢の変化は直接、肌質に影響します。細菌叢を変異させることで、状態の良い肌質をより長く保たせることができればいいと思います。
具体的には、微生物を培養する手法や、バクテリオファージ(バクテリアに感染して繁殖し、菌体を溶かすウイルスの総称)などを使って、不要もしくは機能が劣ってきた微生物を排除する方法が考えられます。
将来的には、一人一人の肌質に合わせた「良質な肌」を、微生物をコントロールしながらケアすることに成功したいです。
つまり、「万人にとって理想の肌」というものはないのですね。
そうです。各人が持ち合わせる細菌叢こそが、その人のアイデンティティーです。すべての人が最良の細菌叢を保てる未来をつくることが、私たちが研究を続ける目標でもあります。
ジャーナリスト。翻訳・通訳家。東京生まれのパリ育ち。インテリア、プロダクト、環境デザインEcole Camondo卒業。建築、デザイン、アート、産業、工芸などの「ものづくり」の現場を横断的に考察し、日本とフランスの専門誌に寄稿。「東洋人は実年齢よりも若く見られることが多いが、欧州の人たちに比べるとシワの数が少ないからで、代わりにシミは多いもの。今後の年齢に応じた良質な肌の研究に関心を抱いています」
NATURE & SCIENCE 編集長。コンピュータ誌、文芸誌、デザイン誌、カルチャー誌などを手がけてきた。「最も身近なのに、まだまだ未知なのが身体の仕組みです。地味にも映る基礎研究の成果を、文化的な考察とミックスして伝える今回の手法。知りたかったことに触れられる機会として、日本でも増えるといいですね。多様性と平等を尊ぶフランスの意識、科学者がわきまえる自然の摂理。気づきが多いインタビュー記事でした」