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『風の谷のナウシカ』を今、読む意味。(中編)

『風の谷のナウシカ』を
今、読む意味。(中編)

構成・文/神吉 弘邦 写真/川合 穂波(amana)
美術/前田 裕也(edalab.)
協力/海洋堂ホビーロビー東京、DMM.make AKIBA

©︎ 2012 二馬力・G

テクノロジーと倫理をめぐり、熱い議論を交わした座談会の前編。中編では、まず『風の谷のナウシカ』の創作論が展開します。はたして、宮崎 駿監督は作中のどの人物に自身を重ねているのでしょう? また、物語が進むにつれ、中心人物として描く層が変化していった理由とは? 「ネタバレ全開」で進行するので、ぜひ全7巻を読んでからどうぞ!

『風の谷のナウシカ』を今、読む意味。(前編)」からの続き

火(テクノロジー)を捨てた森の人

作中では、火を捨てた部族「森の人」たちがナウシカを助けます。ここでいう「火」とは、いわば文明やテクノロジーの比喩ですが、なぜ、宮崎監督は彼らを理想像として描きつつも、乗りものやメカといった機械文明もカッコよく見せるのでしょうか?

ボヴェ 彼は機械が大好きじゃないですか。飛行機も好きだし、銃やメカも愛着を持って描きますよね。人がつくったもの、つまり「クラフト的なもの」のレイヤーまではすごく愛している。でも、人の「手」をいったん離れた、例えば「AI的なもの」までにいったときには拒否する。そんな印象を受けます。

左からボヴェ啓吾さん、宮川麻衣子さん、曽我浩太郎さん、加藤綾子さん

左からボヴェ啓吾さん、宮川麻衣子さん、曽我浩太郎さん、加藤綾子さん

火を捨てるのが人間らしい姿かと考えると、ちょっと違うと思うんですよ。僕らと他の動物との違いは、モノや道具を生み出す力、火を扱う力を持っていることだと捉えるなら、まさに人間らしさはそこにあります。

ただ、自分たちがつくり出したものがあまりに大きくなって、それによって人間がもはや人間ではなくなっていったときに、今度はそのテクノロジーを否定しなきゃいけないことになる。監督の思っていたモヤモヤは、僕らも共有しているモヤモヤだよな、と感じながら読みましたね。

宮川 森の人って、ずっと感謝して生きているじゃないですか。「蟲(むし)の卵をいただいている」とか「森から少しだけ分けてもらっている」といった言い方で。たぶん、そういった宮崎監督の思想が森の人に託されているんだと思います。

ただ、宮崎監督自身はクロトワだと思うんです。ナウシカとかに対しても、すごくヒネくれた感じで何か言うじゃないですか。

クシャナの側近、クロトワ。27歳。口が悪く皮肉屋だが、庶民出身で部下からの辛抱が厚い。トルメキア軍参謀ながら操船術にも長けている。原作では映画版にない密命を帯びて登場 「風の谷のナウシカ」© 1984 Studio Ghibli・H

クシャナの側近、クロトワ。27歳。口が悪く皮肉屋だが、庶民出身で部下からの辛抱が厚い。トルメキア軍参謀ながら操船術にも長けている。原作では映画版にない密命を帯びて登場
「風の谷のナウシカ」© 1984 Studio Ghibli・H

加藤 あのリアリストのキャラは、宮崎監督が話しそうなこと言いますよね。

宮川 そうなんですよ、リアリスト。それなのに、思わずナウシカを助けに行っちゃったり。あれ、たぶん宮崎監督自身がカメオ出演しているんだと読み進めるうちに思いました。監督はずっとクロトワの視点に立って物語を見ているんだけど、森の人に託した部分もある。

曽我 僕はてっきり、監督はユパ様だと。

ユパ・ミラルダは、ナウシカの父ジルの旧友で腐海一の剣士。45歳。その腕でナウシカたちの危機を幾度も救う。腐海の謎を解くために旅を続けているため、各国の文化や歴史、自然科学にも造詣が深い 「風の谷のナウシカ」© 1984 Studio Ghibli・H

ユパ・ミラルダは、ナウシカの父ジルの旧友で腐海一の剣士。45歳。その腕でナウシカたちの危機を幾度も救う。腐海の謎を解くために旅を続けているため、各国の文化や歴史、自然科学にも造詣が深い
「風の谷のナウシカ」© 1984 Studio Ghibli・H


ボヴェ ちょっとカッコ良すぎるかもしれないですね、ユパ様。僕はミト爺ぐらいかなと。

宮川 物語の部分、部分を自ら埋めているんですね、きっと。

加藤 私、ど真ん中のナウシカだなと思っていて。で、たぶんクロトワは、むしろ監督の憧れだったと思うんですよ。あれだけ割り切って、リアリスト的に損得勘定で生きられる人間ってすごいなと思いつつ、たぶん自分はそこまで強くなれないと感じているのかな、と思っています。

ミト爺(左)は「ガンシップ」の操縦士兼砲手。40歳。ナウシカを護衛する「城オジ」たちは、腐海の毒による石化(四肢硬化)で農作業ができなくなり、城の守りに就いた年配の男性たち 「風の谷のナウシカ」© 1984 Studio Ghibli・H

ミト爺(左)は「ガンシップ」の操縦士兼砲手。40歳。ナウシカを護衛する「城オジ」たちは、腐海の毒による石化(四肢硬化)で農作業ができなくなり、城の守りに就いた年配の男性たち
「風の谷のナウシカ」© 1984 Studio Ghibli・H

宮川 なるほど、宮崎監督はナウシカかぁ。

加藤 ナウシカが森の人から「自分たちの世界に来ないか」と誘われたけど、きっぱり断った場面があったと思うんですが、そのとき「私は人の汚した黄昏(たそがれ)の世界で生きていく」といった話を彼女はして、「私の中にも闇はある」と。「両方を抱えている世界で、もう俺は生きていくしかない」とナウシカに代弁させたのは、駿さんの決意なのかな、と思いました。

宮川 物語が進んでいく中で、それを言わせたということですね。

漫画『風の谷のナウシカ』は、1982年2月号よりアニメ情報誌『アニメージュ』(徳間書店)で連載開始。映画制作などのため幾度かの中断を挟みながら、12年をかけて1994年3月号で完結した

漫画『風の谷のナウシカ』は、1982年2月号よりアニメ情報誌『アニメージュ』(徳間書店)で連載開始。映画制作などのため幾度かの中断を挟みながら、12年をかけて1994年3月号で完結した

ボヴェ 清濁(せいだく)併せ持つというのは最後のキーワードだけど、みんなが森の人のような生き方はできないし、人間の「真ん中」はあそこにはないと思う。本当に修行者みたいなものじゃないですか。現代でも俗世から離れて生きることを選んだ人もいるし、その尊さは間違いなくあるけど、みんながそうは生きられない。あの生活をしても幸福ではないというか、そのことに向き合った葛藤が描かれているのかな、という気がします。


描く人物の視点が変わった

みなさんに聞きたかったのが、ヴ王(トルメキア国王)の役割です。見た目に反して、考え方も非常にしっかりしていて、人間界を代表する「意地」というか、わりと最高峰みたいなキャラクターを最後に出してきたな、と。ナウシカと墓所*1 の対決だけじゃなく、彼を挟んできたのはどうしてでしょうか?

ボヴェ ヴ王もカッコいい死に様ですよね。死の光線からナウシカをかばう最期だなんて。

加藤 ヴ王、トルメキア戦役を起こした張本人なのに、出てくるのはほんと最後だけですから。ちょっと悟ってる感もあるんですよ。すべてをわかったうえで、あの人間臭さを貫くという態度は。

*1 シュワの墓所(ぼしょ)

土鬼(ドルク)の聖都、シュワの中心にある旧文明が遺した建造物。「火の七日間」前の高度なテクノロジーを保存し、歴代の権力者からの協力と引き換えに、技術供与を行う。終盤で明かされる世界の清浄化・再建計画の要となる存在。

 

宮川 作品を通して読むと面白いのが、4巻ぐらいまでは民衆を中心に描かれているけど、その後からは支配階級の人たちを描くようになるじゃないですか。クシャナの兄王子たちも、土鬼(ドルク)の皇弟と皇兄もそうですし。その変化が宮崎監督の中で生じたのが、すごく興味深いなと。

その最後、ヴ王がドンと出てきたなと思いました。他のキャラクターとは覚悟の決まり方が一線を画していますよね。腹のくくり方というか、どんなに嫌われてもいいっていうか、自分の考えを貫いているという意味では。

宮川さんのノートには、図式でメモを取りながら精読した記録が

宮川さんのノートには、図式でメモを取りながら精読した記録が

曽我 なんで転換したんだろうか。休載している間に何か思うことがあったのかな?

宮川 それもあるかもしれないです。


ボヴェ ナウシカのレイヤー自体が、物語上で支配層になっていったのは大きくないですか? 僕、ナウシカは最後に「神になって終わった」というのが持論なんです。

これだけの凄まじいスペクタクル劇がわずか7巻で完結していることに、あるとき疑問を覚えて。考えた結果、理由の1つがナウシカの決断スピードの速さ。どんどん決めていき、ほぼ迷わないんですよ。最後のナウシカの選択は、僕からすると傲慢というか、本当に自分だけで完遂したというか。

最初は辺境に住む一介の少女だったのが、族長の娘であったことから小さな部族の長に収まり、そこからトルメキアと土鬼の戦いのような規模に巻き込まれて。その両方を背負い込むようなかたちで、最後は作中の地図にも描かれてないような広大な世界、数千年前からの人類の業みたいなものをすべて汲んだうえで「神の視点」で決断した。そんな具合に、どんどんレイヤーが上がっていく物語だった気がします。

曽我 やっぱり、背負っているものがどんどん大きくなっていったんでしょうね。

最初、曽我さんはリーダー像としてナウシカは素晴らしいとおっしゃいましたけど、この人の下で働くのはかなりしんどいのでは?

宮川 疲弊死しますね。

曽我 下につきたいって意味じゃないですけど(笑)、ナウシカは自分の意見を持ちながら、まったく意見が違う人のところに行って、まずは話を聞くじゃないですか。そのスタンスが、最初は敵だと思った人たちをどんどん引き付けていくような力を持っているし、対話を諦めない姿勢をずっと貫いてきた。それなのに、最後だけは対話もなしに……。

宮川 すべての対話を否定しますよね。

曽我 そう。逆に、僕はあそこが人間らしいというか。妥協しなかったところがナウシカらしさなのかなと思いました。


テクノロジーから考える展開

曽我 ここまで人間的な話で盛り上がったので、いったんテクノロジーに戻って話しましょうか。作品が描かれた20世紀に比べると、現代はいろいろなテクノロジーが発展しました。今、ナウシカの世界を描くとしたら、どう描かれるんだろう。

例えば、最終的にナウシカは焼いちゃうんですけど、墓所には「未来の人類」の卵がたくさんあったじゃないですか。現実にも人工冬眠のような技術が出てきているのに、なぜそんな回りくどいやり方で人間を造ろうとしたのか。

宮川 私の仮説というか、頭に浮かんだ妄想なんですけど。結局、超高度化文明であっても、器が造れなかったんだと思ったんです。要は、人間を造れない。どんなに技術が発達してもできなかったから、宿り主である人間という種を残したんじゃないかな、って思ったんですね。

曽我 今のテクノロジーで考えると、遺伝子を操作して優秀な人間を生み出そうとする「デザインベイビー」が、実は短命であるとも言われています。やっぱり人体を造るって、本当に難しいのかもしれない。そこまで宮崎監督が予測していたかはわからないですけど、それだったらすごい着眼点だなと。

宮川 私がそれを思ったのは「庭園」のシーンです。この場所、小動物しか残っていないんですよ。例えばネズミとか、小さい動物の器は造れるんだけども、ゾウなどの大きな動物や、人間みたいな少し複雑な生き物は造れないのかなって思ったんですね。まったく新しくつくるヒドラとか王蟲(オーム)などはできると思うんですけど、今まで生きていた人間の再創造、再現というのはできないのかなって思ったんですよ。

人間を腐海の環境にも耐えられる身体にして、何千年もずっと生の営みをさせて、器としてそのまま生かし続けて。世界がすっかり浄化された後、あの「卵」をこの時代の女性に植え付けるしか方法がないっていう結論なのかな。

そういう視点で考えると、墓の主は、ナウシカたちの時代の人間を単なる「器」としか考えていないから怒ったんじゃないのかなって。

そんな発言で辞任に追い込まれた政治家もいましたね。

宮川 生命を利用するだけして、この私たちの犠牲の上に新しい世界を創るのか? とナウシカは「キレた」のかなと思ったんです。

曽我 最終的にナウシカは感情的になったんじゃないかという指摘は、妄想だけどすごく面白い。

ボヴェ ちょっとだけ墓の側の肩を持つと(笑)、墓をつくった科学者たちが計画を実行するまでに、僕はもっと深い議論があっただろうと思います。

もし、当時の人間が冷凍保存されて蘇るだけだったら、意味はなかったんですよね。それまでの人類は、地球をメチャクチャにしてしまい、どうしようもない状況まで自分たちを追い込んでしまった。その人間たちを千年後に目覚めさせても、たぶん同じ結果になる。新しい清浄の世界ではリセットが必要で、そのときはやっぱり新しく生まれるものでなければいけないと考えたのでは。

それであれば、ナウシカも受け入れてあげてもいいんじゃないか。その卵だって、なんの悪でもないじゃないかと。なぜそれを平気に焼き殺せたのか。


ナウシカの最後の決断、支持する人は挙手をお願いします。

ボヴェ これ難しいよ!

曽我 気持ちはわかるというか……。

宮川 自分が決断できるかと言われたら無理そうだから、そういう意味ではすごいなと思うんですよ。人間中心でないのであれば、最後の選択は正しいと思うというか。ナウシカの選択のせいで、あの世界ではもう100年もしたら人類は滅びてしまいそうじゃないですか。

人間を中心に考えたら、やっぱり人間を残すというほうに傾くかもしれない。ボヴェさんは「神の視点」って言いましたが、彼女は「星が決めることだ」って最後に言っていますもんね。ある意味で、全部の生物を代表した決断という感じがしました。

ボヴェ いろいろなものをあれだけ背負ってきた彼女が、あの墓所に対しては理解も受け入れもしなくて、なんだか無理をした決断のような気もするというか。そこにもっと、対話や逡巡はあり得なかったのかな。

宮川 最後は、もう話すらしていないですもんね。「お前にはみだらな闇のにおいがする」と墓の主に言われたあと、「お前達も闇に帰るが良い!!」って言って破壊しちゃう。

ボヴェ ナウシカは「責任は私がとる」ぐらいの覚悟なんだろうけど。本当に神と神の戦いっていう感じで、最後は正義と正義のぶつかり合い。もう対話も合意も諦めて、パワーで抑え込んだ。それしかないのかなぁ、最後まで行くと。

加藤 これはまだナウシカが指導者として未熟だったからという気もしていて。本当は、その愚かさすらも取り込んでほしかった。たぶんこのときのナウシカだとそこまでのキャパはなくて。もしかして、ヴ王だったらこれを取り込んだうえで、何かできたかも? っていう思いがちょっとあります。

ボヴェ そんな感じする。

宮川 墓所の力を全部取り込むってことですか?

加藤 究極まで行きついちゃった人間の愚かさ、ですかね。「自分の中にも闇がある」と言えるぐらいなら、本当はそこも受け入れてやるべきなんだけど、このときのナウシカというか、この時点の宮崎さんにはそこまでのキャパはまだなかったんじゃないかな。

曽我 何歳ぐらいでしたっけ?

宮川 映画をつくったときは38歳って言っていた気がします。

ボヴェ 7巻の最後を描いたのは、その10年後かな。

加藤 まだ作者の老獪(ろうかい)さが足りなかった感がありますね。でも、最後にヴ王がナウシカをかばう場面とか、超好きです。

ボヴェ 今日はヴ王の株が爆上がり。


虚無から日常へちゃんと帰る

宮川 この『折り返し点 1997〜2008』(岩波書店)という本の中に、映画『もののけ姫』(1997年公開)をつくったときのインタビューがあるんです。それを読んで、たぶん『風の谷のナウシカ』で描ききれなかったことを、『もののけ姫』では描いているんだなと。

加藤 『もののけ姫』では、森と人がともに行きる道を最後に探していましたもんね。

宮川 ナウシカの連載時は腹をくくり切れていなかったのかもしれないけれど、監督の中でそうした思想が固まっていったのは感じました。

加藤 他の人はナウシカをどう読んでいるのだろうと検索したら、やっぱりみんな同じように感じていたんですが、最後のほうがニーチェ*2 っぽいなと。世界は虚しいし、なんの意味もないし、人々は愚かだけど、でも、その虚無自体を愛して「よし、もう1回生きよう!」みたいなのが超人で、ニーチェも「みんなそうなれ」って言うけど、絶対なれるわけないじゃんって。

*2 フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)

プロイセン王国(元ドイツ)出身の哲学者、文献学者。実存主義の思想家として知られる。西洋文明を支えてきた宗教的・哲学的観念の滅亡を「神(神々)は死んだ」という有名な一節で宣言。主著『人間的な、あまりにも人間的な』『悦ばしき知識』『ツァラトゥストラはかく語りき』を通じ、「永劫(えいごう)回帰」「超人」といった概念を提示した。

 
森の人もナウシカも同じく超越しているんですが、森の人の場合はちょっと受動的な超人で、全部を超越しちゃったんだけど、諦めてなんにもしない。ただ静観しているだけです。

それに対してナウシカって、ニーチェが一番目指したかった能動的な超人。しかも「人間は全員こうなれるわけじゃない。でも、超人じゃない人々とも一緒に生きていかなきゃいけない」と言い残して元の世界へ帰っていった感じが、やっぱりナウシカはすごい。ニーチェを超えてきたな、ってちょっと思いました。

虚しいってこともわかって飲み込んで、日常を生きるって一番難しいと思うんですけども。普通、そこまで悟ったら隠居したいじゃないですか。


宮川 私も中学校の頃、そういう虚無のようなものというか、「もうこの世界はどうにもならないんだな」って感じました。その虚無に留まり続けることなく、戻ってこられたのはなぜだったんだろうって、自分でもわからなかったです。ともすれば、そっちに行ったまま “タタリ神” になる人だっているわけじゃないですか。

ボヴェ 昔、仏教の方とお話をしたとき、それに近しい話を聞きました。仏教はほとんど哲学ですが、みんなで悟りに向けて鍛錬をしていくじゃないですか。あのとき、すごく身体を使った修行をする。雑巾がけだとか、座禅を組むだとかをやって、思想だけではやらない。あとは1人きりじゃなく、複数人で悟りに向かって鍛錬を積むことをブッダは最初に教えていたんですよね。

その理由はなにかと言えば、その方は「生悟り(なまざとり)で魔境に入る」と表現したんですが、要は、本当の闇というか、生きる意味、人の苦しみというものを深く探求していくと、帰って来られない事態が起こりうる。どこかの時点で見えてくるものがあるけれど、何を見ようと、僕たちはやっぱり日常の中に帰ってきて、ご飯を食べて、この肉体を動かしていくのが大事だと。ちゃんと帰って来なければダメだと悟りに至る仕組みのようなものをブッダは残したということでした。

今の時代くらい、いろんな悲喜こもごもある中で言うと、本気で物事に悩んでグッと考え込む人が昔より多くなってきたときに、別に仏教だけが選択肢ではないけれど、我流でそれをやろうとして魔境に入る人が出てきちゃうから、そのために、これからも「仏教が1個の選択肢としてちゃんと存在している」ことは大事なんだとその方は言っていて、なるほどなと思いました。

©︎ Studio Ghibli © 竹谷隆之・山口隆/KAIYODO

©︎ Studio Ghibli © 竹谷隆之・山口隆/KAIYODO

そういう意味では、ナウシカは深淵を見てから帰ってきて「生きるということ」「生活をすること」を大事にする姿勢を選び取ったところに、希望というか、美しさを見ました。

加藤 やっぱりそこでナウシカが女性だった設定が生きたな、って思った部分もあります。普通に家事をしたり、赤ちゃんといっぱい触れ合ったり、そうした身体的な感覚って、女性のほうがまだ強い気がしているので、そうしたシーンを描くのに不自然じゃないというか。だからこそ戻ってきたことに説得力があったのかな、みたいに思えて。

©︎ Studio Ghibli © 竹谷隆之・山口隆/KAIYODO

©︎ Studio Ghibli © 竹谷隆之・山口隆/KAIYODO

仏教の話題で言えば、私は「十牛図(じゅうぎゅうず)」という、詩が付いた絵が好きなんです。悟りの段階を牛に例えて、どういうふうに悟っていくかを体系化した絵。最後が悟って終わりじゃなく、その後は牛も手放して、町に帰ってきて、子どもと遊びなさい、って書いてあるんですね。ピークに行って終わりじゃなく、戻ってきて完成というマニュアルができているんです。本当に丁寧。

トランスパーソナル心理学の分野でも、明治大学の諸富祥彦先生が「こう行って、こう帰るまでが大事です」と書いていたから、やっぱり日々の生活を大事にするのが重要な気がしています。

→「『風の谷のナウシカ』を今、読む意味。(後編)へ続く


Profile
Writer
神吉 弘邦 Hiroikuni Kanki

NATURE & SCIENCE 創刊編集長(2018〜2020年)。コンピュータ誌、文芸誌、デザイン誌、カルチャー誌などを手がけてきた。「コロナ禍において、再び評価の高まっている『風の谷のナウシカ』。時代が大きく変わっても、けっして作品の強度は失われていないと感じました。映像化されていない、原作の中盤〜結末の作品化を待ち望んでいるのは、筆者だけではないはずです」

Photographer
川合 穂波 Honami Kawai

amana所属。広告写真家と並行して作家活動を行う。
https://amana-visual.jp/photographers/Honami_Kawai

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