考える力を育む場で
日本科学未来館とさぐる
リスクへの科学的な態度
写真/清水 北斗(amana)
日本科学未来館とさぐる
リスクへの科学的な態度
政府の緊急事態宣言が全国で解除されたことを受け、日本科学未来館はスローガン「risk ≠ 0(リスクはゼロではない、だから)」を掲げて、2020年6月、再開館しました。新型コロナウイルスの影響下、どのような思いで開館にいたったのでしょうか。そして、感染症に対する「科学的な態度」とは。
新型コロナウイルス感染症の拡大にともなって、リモートワークや無人レジシステムなど新たな生活スタイルが広がりました。こういった新しい生活スタイルは、テクノロジーによる下支えがあってこそできたものです。
テクノロジーの未来について、長い時間軸で考えたい。そんなテーマに最適な場所が、東京・お台場の「日本科学未来館」(以下、未来館)です。2019年11月からは、常設展の一部が落合陽一さんの監修で新しくなりました。この新しい展示「計算機と自然、計算機の自然」は、どのような世界を私たちに見せてくれるのでしょうか。
最初にお話をうかがったのは、同館 調査・企画担当マネージャーの宮原裕美さんです。再開館の際に掲げたスローガンや、現在の感染症対策についてお聞きしました。
「リスクはゼロではない、だから」というスローガンには、どのような思いが込められているのでしょうか?
来館者自身に「気をつけよう」と思ってもらう、つまり自己効力感*1 のある情報発信こそが、科学コミュニケーションとして、また未来館の態度としてもすごく重要なのではないかと思っています。
*1 自己効力感
個人が行為の主体として、なにをどうすればリスク回避につながるか、リスク対策に寄与できるのかを認識して、適切な行動をとることができるという信念や確信のこと。
どうやったら、来館される方々に「私も気をつけなきゃな」と思ってもらえるかを考えたときに、「リスクは0ではない」ということは絶対に伝えよう、そして、「だから」もつけようという話になりました。
「だから」で、わざと止めている狙いはどこにありますか?
そうすると、このあとに続くのは「だから、私は未来館には行きません」かもしれないし、「だから、私は来館前に必ず消毒をします」かもしれません。
それぞれが「だから」のあとに自分なりに文章をつくることができるのではないか、ということを期待して、「だから」のあとは、みなさんで考えてもらえるようになったらいいな、という思いでつくりました。
このメッセージを前面的に出すことには最初、内部ではいろいろと意見があったんですけれども、最後は館長の毛利から「すばらしい!」とのコメントがあり、このスローガンに決まりました。
未来館として、具体的にどのような感染症対策を取られていますか?
新型コロナウイルスに対して、「未来館自体が対策すること」と「来館者の方々にお願いすること」の2つを組み合わせることで、リスクが下げられる。相互協力のもとにリスクを下げよう、というのが大きな考え方です。
前者の「未来館の取り組み」は11個に、後者の「来館されるみなさまにお願いすること」を5個にまとめてアイコンにしています。
未来館の11の取り組みとしては、入り口での消毒であったり、検温の実施であったりさまざまあるのですが、そのうちの1つが「対策の情報公開」です。
未来館が、科学コミュニケーションとしてリスク対策の情報をなるべく透明に提示する。これが、来館される方々の自己効力感を上げる手助けになるのではないか、ということで、この情報公開自体も取り組みの中に入れています。
具体的には、取られている対策をアイコンの組み合わせでさまざまな場所にサインとして表示しているほか、展示を休止するにしても「なぜ休止するのか」、もしくは「インタラクティブ(双方向)の展示を自動ループ(繰り返す流す方法)にしているのはなぜか」など、その理由も含めて掲示しています。
感染症に対する「科学的な態度」とは、どういうものだと思われるでしょうか。
ただ自分が安心するという心の問題ではなく、自分自身が納得して「リスクを下げている」ことを自覚できるのが、科学的な態度だと考えています。
具体的には「リスクがある」ことを認めて、「どこにリスクがあるのか」を察知し、リスクを下げるために「自分は何ができるのか」を考えられることかなと思っています。
未来館は科学コミュニケーションを行う中心拠点であり、新型コロナウイルスの予防対策というのは、まさに科学的なリスクコミュニケーションそのものです。
対策の根拠や考え方もサインとして表示することで、たとえば「触らないでください」という単なる禁止サインで終わるのではなく、来館される方自身に科学的な態度で考えてもらう、1つのメディアとして機能することを期待しています。
続いて話をうかがったのは、同館の科学コミュニケーターである綾塚達郎さんです。綾塚さんたち未来館のスタッフは、感染症の識者とネット動画「ニコニコ生放送」を通じて、これまでに新型コロナを解説する番組を46回にわたって放送してきました。
今回の「わかんないよね新型コロナ」は、どのように始まったのですか。
以前からエボラ出血熱*2 やMERS(中東呼吸器症候群)*3 、薬剤耐性菌*4 が流行したときなどに、国立国際医療研究センターの堀 成美さんと連携していた関係で、ごく自然に始まりました。
放送は対談形式で行い、新型コロナウイルスについて必要な対策を解説したり、視聴者から寄せられた疑問や質問に答えたりしてきました。
*2 エボラ出血熱
エボラウイルスが引き起こす感染症。1976年に中央アフリカのスーダンとコンゴで初めて確認され、以降中央アフリカや西アフリカの国々でアウトブレイクを起こしている。潜伏期間は2日~21日で、突然の発熱や頭痛、倦怠感、筋肉痛などの症状が現れ、進行すると嘔吐や下痢、出血などの症状が出る。
*3 MERS(中東呼吸器症候群)
コロナウイルスの一種によって引き起こされる感染症で、2012年にサウジアラビアで初めて報告された。その後、アラブ首長国連邦やヨルダン、カタールなどの中東各国で流行。潜伏期間は2~14日で、発熱や咳にはじまり、重症のケースでは肺炎を引き起こすほか、下痢などの症状をともなうこともある。
*4 薬剤耐性菌
抗菌薬(抗生物質)に対して耐性をもつ細菌。抗菌薬の不適切な使用が大きな要因となっている。薬剤耐性菌は世界中で増加しているが、耐性をもつため治療が困難で、耐性菌拡大防止のために抗菌薬の適切な使用が求められている。対策が取られなければ、2050年には薬剤耐性菌によって世界で年間1,000万人が死亡するともいわれている。
視聴されている方々からの質問やコメントから気づいたこと、感じたことはどんなことでしょうか。
たとえば「テレビ疲れしていたけれど、この番組を観ていると落ち着く」など、「落ち着く」というワードがよく出てきました。どの対策が正解で、なにを絶対にやらないといけないのか、そういった不安が番組を通して和らいだのかなと思います。
必要となる対策は、現場によってものすごく変わってきます。それぞれの方が置かれている状況や、一人一人の違いを意識することが大切です。
そのため、番組では「科学的にこうだからこうしましょう!」といったような、頭ごなしに「良い・悪い」を突きつけることを絶対にしないようにしました。
どのようなメッセージを伝えられたか、印象に残る回のエピソードなどもあれば、あわせてお聞かせください。
不安をあおるようなメッセージや、ミスリードするようなこと、誰かを責めるようなこと。直接的ではなくても、そういったことにつながる情報は、感染症対策にとって何もいいことがありません。
「現場によって違う」「不安を抱えすぎても動けない」「人を責めても良いことはない」というメッセージをずっと伝えてきたのかなと思います。
具体的には、メディアで「夜の街クラスター」の話題がよく取り上げられる時期がありました。しかし、感染リスクは昼の会食でも十分にあるはずです。
放送中に「新型コロナウイルスは夜行性ですか?」という質問がきたことがあって、「あれ?」と思って。つまり、「夜の街」の危険性が連呼されていたから出てきた疑問なのだなと思いました。
むしろ、夜の街といわれる場所で働く方々は今大変な努力をされています。そうした努力を水の泡にするような、人を責めるような言葉を使ってはいけない。そういったメッセージを発信し続けてきました。
綾塚さんは科学コミュニケーターとして、未来館の現場にも立っていますよね。感染症対策でもっとも大事なポイントは、どのようなことだと思いますか?
先ほどのスローガンとは別に、私たちが発信し続けてきたメッセージがもう一つあります。それが、「対策は足し算、リスクは引き算」です。
対策を積み重ねる(足し算できる)ことで、少しずつリスクを除外していける(引き算できる)という考え方ですね。
そうです。スローガンである「リスクはゼロではない、だから」がもつ意味に近いかもしれませんが、少しずつ、できるところからリスクを減らしていこうという意味です。
「絶対にこれがダメ」というのではなく、それぞれの状況に合わせた対策を積み重ねて、リスクを減らしていく。答えがないので、専門家だってわからないことばかりです。各自で状況によって対策する、各自で考える、ということが大事ではないかと伝えています。
最後に、昨年末リニューアルされた常設展「計算機と自然、計算機の自然」について、同館の調査・企画担当、山田千晴さんにお聞きしました。
展示のテーマ、見どころについてお聞かせください。
この展示では、計算機(コンピューター)や人工知能が高度に発達した未来において、私たち人間が、あるいは計算機が「どういう世界観・自然観をもつのか」ということを問いかけています。
もともと、人工知能の展示をつくれないかと考えていたのですが、5年~10年という長い期間で展示を行う常設展では、かなりのスピードで発達している人工知能の技術そのものを展示すると、古びてしまうのではないかと考えました。
チームでリサーチを進めるなかで、もっと普遍的なメッセージを伝える展示のほうががよいだろうと考えていたときに、落合陽一*5 さんと出会い、総合監修とアートディレクションをお願いすることになりました。
*5 落合陽一
メディアアーティスト、筑波大学准教授。高度に発達したコンピューター(計算機)と自然の間に境界がなくなり、混然一体となって融合する未来=デジタルネイチャー(計算機自然)の到来を予言。2025年の大阪・関西万博のプロデューサーの1人に選ばれた。
リニューアルの準備はほぼ2年をかけて行われ、2週間に一度は落合さんと対面で打ち合わせをしてきました。
どういう内容を扱うか、技術的なものに加えて、世界観・自然観といった抽象的な概念をどうやってかたちにして見せていくかというところも、かなりご意見をいただき、議論をしながらやってきました。
オープンの2週間ほど前には、あらためて「来館されるみなさまにどんな気持ちで展示に触れてもらったらいいか」を落合さんとディスカッションしたのですが、そこで生まれたキーワードが「答えではなく、問いを見つける細道へ」というものです。
「問いを見つける細道」というのは、ユニークな表現ですね。
どうなるかという未来予測ではなく、1つの未来のビジョンを伝えています。見た方は、それを未来の答えとして捉えるのではなく、どんな未来がやってくるかとか、そのときの人間はどんな価値観をもっているのか、あくまで問いかけとして受け取っていただければ、というふうに思っています。
展示どうしにはつながりがあると感じますが、どのような構成になっているのでしょうか。
29点の展示物全体で、手前側は直感的に世界観を感じていただける展示になっていて、後ろ側の壁面に関しては、その裏側にある技術や歴史的な背景、文化について理解できる構成になっています。
また、シンボル展示が2つあります。それがタイトルにもなっている「計算機と自然」、そして「計算機の自然」です。
中核となる考え方の一つに「日本的な自然観」があります。西洋的な考えだと人工知能と人間が対立するような姿がよく描かれているのですが、「自然と技術が融合する」というのは、アジア的、日本的な価値観ではないかと思います。
計算機や自然というテーマに関連して、私たちの世界はどのように変わっていくのか、お考えをお聞かせください。
「『経験』と『法則』を繰り返す人類の物語」という展示では、5名の研究者に監修いただき、5つのテーマについて、ありうる未来を紹介しています。たとえば音楽でいうと、昔は身のまわりにある骨をいじって音を出していたところに始まって、楽器ができ、レコードができ、現在は音声合成なども可能になりました。
未来には、人の聴覚がコンピュータによって拡張されることもあるでしょうし、計算機のほうが聞き手にまわるようなこともあり得るかと思います。
リアルかバーチャルはあまり気にせず、私たち人間が、そこにあるものを感じられるかどうかが大事になってくる、そんな時代がやってくるかもしれません。
コンピュータによるデジタルの環境が、新しい「自然」になると。
そこにあるものがリアルかバーチャルか物理的に決めるというのではなく、そこにあるものを人間がリアルと感じられればリアルと同じである、私たちがそんな価値観を獲得している可能性もありえるのだと思います。
最後に、どのような変化があったか、また、これからの未来館の未来像について、みなさんにお聞きしました。
新型コロナウイルスの登場によってできなくなったこと、あるいはやっていきたいことなど、未来館にとって変化していく部分はありましたか?
宮原さん「未来館はインタラクティブな展示が多く、触れることで成立する展示が多いのですが、『メッセージを伝達するために本当に必要だったのだろうか』ということをあらためて感じました。また、オンラインへの移行が進む中、リアルな場所でこそできる価値がいま問われています。デジタルコンテンツで完結することを、わざわざリアル空間でやる意味がどこまであるのか。来館するからこそ成立する、洗練された意味が問われていると思っています。コロナ以後も、リアルとバーチャル、2つの方法で展示体験を深めていけたらいいなと思います」
綾塚さん「今、宮原さんが言った『リアルの価値というのは何だったんだろう』というのは、自分でもすごく考えています。たとえば、現在はマスクの着用が基本になっているのですが、表情がなくなるだけでコミュニケーションのしかたがまったく変わってしまうんです。逆に無言でも、表情だけで伝わるものは結構あって、こうした『情報の伝え方』はすごく変わっていくと思います。マスクを外して話せるときが来るといいなとは思うのですが、安心感をもってもらう、信頼を築いていく、そうしたコミュニケーションとはどういうことだろう、というのを探しています」
山田さん「たとえば『計算機と自然、計算機の自然』では、歴史上の人物が、社会や文化に技術がどのように影響してきたかを語る展示を設けています。武田信玄は、自らが戦場で使った『のろし』を例に、コミュニケーション戦略というものは、その時代の技術をうまく取り入れることも大事と話しています。オンラインの技術も、私たちが生存戦略として今ある技術を積極的に取り入れ、それが生活の中に溶け込んで自然になっていくと思います。一方で、リアルの価値は確実に上がっていくでしょうね。昔からそうであったように、新しい技術を獲得して、文化として定着していく過程の中で、もっと別な価値観がクローズアップされ、大事になっていくのだと思います」
今日は貴重なお話をありがとうございました。
新型コロナウイルスの登場を経て、私たちの社会は大きな変容のただなかにあります。急速に進歩する人工知能などのテクノロジーも合わせ、その先にある未来はどういった姿になっていくのか、その「正解」を確実に予測することは誰にもできないかもしれませんが、そんな中で大切となってくるのは、私たちの「考える力」なのではないかと感じます。
コロナ禍の折、「risk ≠ 0」を掲げて、入館予約した来館者を迎えている日本科学未来館。正解がない状況で、一貫して「一人一人が自ら考える」ということを大切にしていました。それは感染症対策に限らず、コロナ禍の前にリニューアルされた新しい常設展でも同じで、問いかけに対して一人一人がどう考えるか、というコンセプトをもっているのが印象的でした。
サイエンスライター。中学校・高等学校の理科教員として10年間勤務したのち、世界に散らばる不思議やワクワクを科学の目で伝えるべくライターへ。「科学コミュニケーションの最前線に立ってこれからの世界を見据える未来館。みなさんからのお話に、インタビュアーの自分もよい刺激をいただきました」
Twitter: @yuruyuruscience
1990年埼玉県生まれ。フォトグラファー。現在、amanaに所属し、広告を中心に活動中。
https://amana-visual.jp/photographers/Hokuto_Shimizu/
NATURE & SCIENCE 編集長。コンピュータ誌、文芸誌、デザイン誌、カルチャー誌などを手がけてきた。「2020年春から、私たちが経験してきたコロナ禍。未知の事態にどのような行動を取れば良いのか、数々の情報に悩まされた方も多いと思います。結局は、自分の頭で『よく考え、判断をする』ことに尽きるのだ、と感じる取材でした」