鬼の過去、現在、
そして未来
科学のフォークロア⑤
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科学のフォークロア⑤
民俗学者で作家の畑中章宏さんが、民俗学の視点から先端科学や自然現象を読み解く連載。第5回のテーマは、「鬼」。漫画、アニメ、映画と大ヒットを飛ばし、社会現象と言えるまでの存在となった『鬼滅の刃』。この作品の根源となる「鬼」とは一体どんな存在なのでしょうか。その正体を紐解きながら、社会の移ろいと鬼の姿との関係や、さらには未来の「鬼」象を探って行きます。
今年は1897年以来、124年ぶりに、節分の日が例年より1日早い2月2日になる。季節の節目の日である節分は立春の前日に当たり、1年間を「二十四節気」にあてはめて運用をしようとすると、1年にわずかずつだが誤差が生じる。2021年は2月3日が春分にあたることから、2月2日が節分になるのだ。
節分は、人間と鬼があいまみえる重要な年中行事である。この機会に鬼と人間の交渉史について考察したいと思うのだが、そのきっかけにはもうひとつ、昨年来、社会現象となっている『鬼滅の刃』のブームのせいもある。
鬼舞辻無惨の配下で、鬼殺隊と戦う十二鬼月たちは、節分の鬼の延長上にいる存在なのか、そうではないのか。定評ある「鬼の研究書」2冊を読み解きながら、鬼の過去と現在に思い馳せることにしよう。
鬼の歴史は、人間の鬼に対する「関心」の歴史と言い換えてもよい。たとえばこの日本でも、鬼と出会った人々が鬼のことをどのように認識してきたかによって、その性格や姿形が変化してきたのである。
歌人・馬場あき子の『鬼の研究』(1971年)は文字どおり、この列島に生きてきた鬼の研究に関する古典的名著だが、そこに示された鬼の系譜と分類は、現在でもまだ示唆的である。
馬場はまず、鬼を3種類に分類する。
1 「民俗学上」の鬼。祝福にやってくる祖霊や地霊で、鬼の最古の原像。
2 山人系の人々が道教や仏教をとり入れて修験道を創成し、組織的にも巨大な発達を遂げることで活躍し始めた「山伏系」の鬼(や天狗)。
3 「仏教系」の邪鬼、夜叉、羅刹の出没、地獄卒、牛頭、馬頭鬼。
以上は神道系、修験道系、仏教系の鬼だが、これらと別種の、生活哲学に生きた鬼の族がある。
4 放逐者、賤民、盗賊など「人鬼系」の鬼。この系譜に位置する鬼たちは、それぞれの人生体験を経て自ら鬼となったもので、前記の3系譜の鬼とも微妙なかかわりあいをみせる。
5 「変身譚系」とも名づけられる鬼。怨恨・憤怒・雪辱など、さまざまな契機から鬼へと変貌を遂げたもので、そうした情念をエネルギーに、復讐を遂げるために鬼となることを選んだものたちである。
馬場による鬼の分類に当てはめると、節分の鬼は春の訪れる告げる精霊的な性格から1の要素が強く、2と3の影もちらつく。
『鬼滅の刃』の鬼たちは鬼舞辻無惨によって鬼にされてしまった点で4にちがいない。ただし創始者たる無惨だけは、〈永遠の生命〉を獲得するため鬼となった点で4とともに、5の性格も濃いといえるだろう。『鬼の研究』における系譜と分類は、21世紀の漫画・アニメにも適応できるのだ。
妖怪研究の権威である小松和彦も、『鬼と日本人』(2018年)で、「鬼は長い歴史をもっている」としたうえで馬場と同様の指摘をしている。「鬼」という語は、古代の『日本書紀』や『風土記』から、中世、近世と生き続け、現代人の生活のなかにも登場する。「鬼」という言葉の意味や、姿形も、長い歴史をくぐり抜けて来る過程で変化し、多様化したというのだ。
日本の中世には、様々な分野で鬼が大活躍した。鬼の代名詞とされる「酒呑童子」や「茨木童子」もこの時代に生まれた鬼である。「芸能」のなかの鬼、「文学」のなかの鬼たちも、その多くがこの時代に誕生した。「こうした鬼の台頭は、この時代が古代や近世に比べて、社会秩序が不安定であったことと深く関係している。そして鬼の性格のあいまいさも、そうしたことと無関係ではないはずである。」(小松和彦『鬼と日本人』)
しかし、近世に入って社会秩序が安定すると、鬼は両義的な性格を奪われ、邪悪な力の形象とみなされるようになり、悪として制圧され、封じ込められてしまう。節分の日に追い払わられる鬼もまた、怪異性とともに、侮蔑と揶揄が混在するようになったと小松は慨嘆するのである。
小松はまた、日本の鬼は「社会的に存在するもの」と「目に見えない想像上のもの」の2つの系統に区分できるという。
一方に鬼とみなされた人々が存在し、他方には、絵画や文献、演劇の中に登場する人々が想像した鬼たちがいる。この2つ系統は、互いに深い関係を取り結んでいることから、鬼のイメージも、画一化しつつ多様性を備えているはずだった。
鎌倉時代に描かれた鬼には、角がない鬼がいたり、牛や馬の形をした鬼がいたり、一見しただけでは鬼とはわからない異形の鬼もいた。それがだんだんと画一化されていき、江戸時代になると筋骨隆々で、頭には角(ツノ)があり、肌の色は赤や青、黒、口から牙がはみ出ていて、虎の皮の褌(ふんどし)をつけた姿が、典型的な鬼のイメージになっていった。そして、こうした特徴のなかでも、頭に角が生えているかどうかが最も重要な指標となり、角のあるなしを、鬼か否かを判断する材料にすることが少なくないのである。
荻野慎諧の『古生物学者、妖怪を掘るー鵺の正体、鬼の真実』(2018年)は、理学博士(地質・古生物学者)である著者が、古文献を渉猟しながら妖怪の正体の“科学的”解明を目指した快著である。もちろん鬼についても、第一章の冒頭で詳しく言及されている。
鬼や悪魔といった想像上の生物はともかく、角を持つ実在の動物には、シカやウシ、ヒツジ、サイといった哺乳類、カブトムシやクワガタムシなどの昆虫がいる。絶滅種である恐竜のなかにも、トリケラトプスをはじめ特徴的な角を持つものがいる。
そのうえで荻野は、角付きの生物に共通する大きな特徴のひとつは、「すべてが『植物食』という点だ。どれも動物を狩って食べることがないことにも注目していただきたい。シカもヒツジも、先に挙げた生物すべてである。カブトムシも樹液を吸う植物食者なのだ」という。角のある生物に肉食のものはほとんど存在せず、角は保身やオス同士の争いに用いられる。角は積極的に他の生物に襲いかかるために使用されるものではないというのである。
それに対し、このルールは架空生物の世界では適用されず、世界各地の神話やおとぎ話にでは、角のある生物が人を襲って食べたり、ほかの生物を困らせたりする。角という記号は神話的、民俗的、かつ通俗的に鬼には欠かせないものになっているのだ。
節分の鬼もまた「角」を持つものの、勇ましく登場してきても、豆を撒かれて退散してしまう。
小松によると、鬼にはもともと、人間に慈悲深い鬼もいれば、人間にこき使われる鬼、人間に適当にあしらわれる愚かでか弱い鬼もいる。しかし、そうした鬼は、怖しい鬼がいるからこそ生み出された「変則的」な鬼であり、節分の鬼もその一種なのだ。
そして、鬼の定形である角と揮がここでも応用され、さらに棘のついた鉄棒までが付与された。こうした造形化には、鬼への畏怖や敬虔はなく、「古代的・呪的な精神の哀れなカリカチュア」であり、古い鬼が変質し衰退した姿にすぎないのである。
鬼の現在について小松は、「高度情報化社会のさまざまな情報のなかに、新しい鬼や妖怪が再び活動の場を与えられはじめている」とし、伝奇小説、ホラー映画、アニメ、ゲームなどの流行を、その端的な表れだという。この論考(「鬼の時代―衰退から復権へ」1991年)は、今から30年前に執筆されたものだが、“鬼滅ブーム”の現在も変わることがない。
小松はまた、「鬼」は「人間」の反対概念であり、日本人が抱く「人間」概念の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものだとも述べている。つまり、鬼とは相対的な概念であり、2人の人間、2つの集団が存在したなら、互いに相手(や相手の集団)に対して「鬼」というラベルを貼り付けることができるというのだ。
この時代に一世を風靡した『鬼滅の刃』の鬼たちは、じゅうぶんに反社会的で・反道徳的な存在だった。しかし、角など持たず、宿命によって鬼化した哀れな存在でもある。未来の鬼もおそらくは、相対的な概念として生み出され、人間に紛れてふるまうのではないだろうか。
そのとき何をもって鬼を見究めるかは、こちらこそより相対的で、脆弱な「人間」概念を明確にする以外にないのかもしれない。
1962年大阪生まれ。民俗学者・作家。“感情の民俗学” の視点から、民間信仰や災害伝承から流行の風俗現象まで、幅広い研究対象に取り組む。著書に『柳田国男と今和次郎』『『日本残酷物語』を読む』(ともに平凡社新書)、『災害と妖怪』『津波と観音』(ともに亜紀書房)、『天災と日本人』(ちくま新書)、『先祖と日本人』(日本評論社)、『蚕』(晶文社)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『死者の民主主義』(トランスビュー)ほかがある。最新刊は『関西弁で読む遠野物語』(エクスナレッジ)。