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特集

パンと微生物が歩んだ道のり

パンと微生物が
歩んだ道のり

小麦と酵母の共同作業

文/中作 明彦

©︎ arc image gallery /amanaimages

毎日の食卓を彩るふかふかのパン。パンは人類とともに長い歴史を歩んできました。わたしたちが普段食べているパンには、酵母という微生物の「発酵」というはたらきが欠かせません。パンは、生物の力を借りてつくられているのです。しかし、人類は最初から今のようなふかふかのパンを食べていたわけでもないし、酵母の存在を知っていたわけでもありませんでした。今回は、パンと酵母が歩んできた長い歴史を少しだけご紹介します。

最初のパンはいつ誕生?

パンはいつ誕生したのでしょうか。
正確なところは分かっていませんが、ヨルダンの遺跡*から1万4,400年前のパンの化石が見つかっています。
これが現在知られている最古のパンで、少なくともその頃に人類はパンをつくっていたことになります。

このパンは、小麦や大麦などを砕いて粉にし、水と混ぜ合わせてこねた上で、炉(ろ)で焼いてつくられたと考えられています。

たくさんの実をつけた小麦。今から1万年前(紀元前8,000年)ごろには、ユーフラテス川流域からパレスチナを含む「肥沃な三日月地帯」で栽培化が始まっていたことが明らかになっている ©︎ Steve Cavalier / Alamy /amanaimages

たくさんの実をつけた小麦。今から1万年前(紀元前8,000年)ごろには、ユーフラテス川流域からパレスチナを含む「肥沃な三日月地帯」で栽培化が始まっていたことが明らかになっている
©︎ Steve Cavalier / Alamy /amanaimages

ただ、このヨルダンのパンをはじめ、人類が最初に食していたパンは薄くて平べったく、現在のわたしたちが食べているふかふかに膨らんだパンとは大きく違うものでした。
この時代のパンは「無発酵パン」とよばれており、酵母のはたらきを借りず、文字通り発酵なしにつくられるパンです。

現在でも、インドやパキスタンのロティ(チャパティ)、トルコのユフカ(フィロ)、中南米のトルティーヤなど、世界各地にさまざまな無発酵パンがあり、それらはおかずと一体で食べるのにも適した形状をしています。

たとえばトルティーヤは、トウモロコシの粉(小麦粉を使う場合もある)と水を混ぜてこねた生地を団子状にし、これを薄く広げて焼いてつくられます。
そして、トルティーヤに肉や野菜をはさんだものが、かの有名なタコスです。
食べたことがある、という方もいらっしゃるのではないでしょうか?

ロティ(チャパティ)を焼くようす。世界中でさまざまな無発酵パンと食べ方が生み出され、豊かな食文化を築いてきた ©︎Lucas Vallecillos / Alamy /amanaimages

ロティ(チャパティ)を焼くようす。世界中でさまざまな無発酵パンと食べ方が生み出され、豊かな食文化を築いてきた
©︎Lucas Vallecillos / Alamy /amanaimages

*1 ヨルダンの遺跡

首都アンマンから北東におよそ130kmの位置にあるシュバイカ1(Shubayqa1)遺跡。

Archaeobotanical evidence reveals the origins of bread 14,400 years ago in northeastern Jordan
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6077754/
High Resolution AMS Dates from Shubayqa 1, northeast Jordan Reveal Complex Origins of Late Epipalaeolithic Natufian in the Levant
https://www.nature.com/articles/s41598-017-17096-5


酵母の力でふわふわに

一方で、ふかふかのパンには、酵母による「発酵」というはたらきが必要不可欠です。

酵母は、生物学的には菌類に分類されます。分類上はカビやキノコの仲間です。
果実や樹液、花の蜜、土壌中などさまざまな場所に生息していますが、その大きさは非常に小さく、肉眼では見えません。
しかし、目に見えないほど小さな酵母ですが、そのはたらきである「発酵」は古くから人類に利用されてきました。

長い間、人々は酵母の存在を知らずに、発酵という現象を利用し続けてきたのです。

酵母は小麦粉などに含まれる糖を取り込んで分解し、このとき二酸化炭素のガス(=炭酸ガス)とアルコールができます。これが酵母の行う発酵で、正確にはアルコール発酵*とよばれるものです。
酵母はアルコール発酵を行いながら、パン生地の中でどんどん増殖していきます。

発酵で生じる炭酸ガスは、小さな気泡となり生地に包まれます。
この生地を焼くと、熱によって気泡が膨張して、膨らんだパンができるのです。

気泡がしっかりつくられた発酵パン ©︎ hi-bi/amanaimages

気泡がしっかりつくられた発酵パン
©︎ hi-bi/amanaimages

わたしたちが普段食べているパンの断面を思い出してみると、細かい気泡がたくさんできています。
この気泡は酵母のはたらきによってつくられたもので、このおかげでパンにふっくらしっとりとした食感が生まれているのです。

*2 アルコール発酵

酵母菌が糖(ブドウ糖や果糖など)を取り込んで分解し、自身の生命活動に必要なエネルギーを得るとともに、その際、炭酸ガスとアルコール(エタノール)を生成する。


発酵による美味しさ

このように、酵母による発酵を利用してつくられるパンを「発酵パン」と言いますが、発酵パンはいつ、どこで誕生したのでしょうか?

人類史に誕生した無発酵パンは、その後、世界の各地へと広まっていきました。
スイスの遺跡*からは今からおよそ5,700年前(紀元前3,700 年)の発酵パンの化石が発見されており、これが現在知られている最古の発酵パンです。

いずれにしても、それまでの薄くて平べったいパンはどこかで酵母と出会い、そのはたらきによって膨らんだパンが誕生したのは間違いないでしょう。
古代エジプト発祥ではないかとも言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。

当時の人々は、酵母の存在も、そのはたらきである発酵のしくみも知りませんでした。
しかし、酵母は、発酵をおこす素(もと)、「パンの種」としてさまざまな形でパン生地に加えられることになります。

たとえば、発酵させたパン生地を焼かずにとっておき、次にパンをつくるときに混ぜるという方法がありました。
発酵させたパン生地には増殖した酵母がたくさん含まれているので、これを一部残しておいて次のパンづくりに使うわけです。
その方法は現代でも残り、「サワー種(サワードゥ)*4」などが伝わっています。

ドーム状に盛り上がったサワー種(サワードゥ)。温かい部屋(室温21℃くらい)で14〜24時間ほど熟成させると、代謝が始まりガスが発生する ©︎ Andre M. Chang / Alamy /amanaimages

ドーム状に盛り上がったサワー種(サワードゥ)。温かい部屋(室温21℃くらい)で14〜24時間ほど熟成させると、代謝が始まりガスが発生する
©︎ Andre M. Chang / Alamy /amanaimages

人々は、酵母の存在も、そのしくみや理由もわからないけれど、自然界でおこる一つの現象として発酵を利用したのですね。

ただ、昔は酵母の培養技術などが今よりずっと低く、私たちが普段食べているようなふっくらふかふかに膨らんだパン、とまではいきませんでした。

*3 スイスの遺跡

スイスのモンミライユ(Montmirail)遺跡から、現存するものとしては最古の発酵パンの化石が4つに割れた姿で発見され、均等な気孔を示し、よく発酵している状態がわかった。今からおよそ5,700年前のものと考えられている(Wahren, 2002, S. 381-400.)。同じく、スイスのトゥワン(Twann)遺跡からは、今から5500年前と推定される「完全な形を留めた発酵パン」の化石が見つかっている。

*4 サワー種

ライムギ粉と水を混ぜてペーストにし、ビンなどに入れて放置しておくと、空気中を浮遊する酵母菌が付着して増殖し、パンの種となる。同じように空気中を浮遊して付着した乳酸菌も増殖するので、その乳酸発酵のためすっぱくなり、サワー(=すっぱい)種となる。


ようやく酵母が知られる

発酵パンはギリシャ、ローマを経てヨーロッパに伝わります。
酵母のはたらきはパンづくりに欠かせないものとなっていましたが、まだ人々は酵母も、パン生地が膨らむ理由もわからないままです。

酵母の大きさはおよそ5㎛(マイクロメートル)前後。大きくても10㎛程度です。
1㎛は1mmの1,000分の1のスケールなので、5㎛は0.005mmです。

私たちが肉眼で物体を識別できる限界は0.1~0.2mmなので、これよりずっと小さい酵母は肉眼ではまったく見えず、その存在がわからなかったのですね。

このような、目に見えない小さな生物は「微生物」とよばれます。

微生物の存在が知られるようになったのは17世紀。レーウェンフック*が自作の顕微鏡を使って、「微生物を発見」したことに始まります。
それまでは、目に見えない小さな生物が地球上に存在するなんて考えられていませんでした。

レーウェンフックは池の水や海の水、人の口の中などを観察し、さまざまな微生物を発見しました。酵母も、レーウェンフックによってビールの中から発見されたのです。

電子顕微鏡で撮影した酵母(イースト菌) ©︎ SCIENCE PHOTO LIBRARY /amanaimages

電子顕微鏡で撮影した酵母(イースト菌)
©︎ SCIENCE PHOTO LIBRARY /amanaimages

その後19世紀になり、シュワン*やパスツール*によって、酵母のはたらきで炭酸ガスとアルコールが発生することが解明されました。

謎の自然現象として利用されていた発酵は、酵母という生物のはたらきによるものだということがわかりました。
紀元前からの謎だった発酵の正体が解き明かされたのです。

*5 レーウェンフック(1632-1723)

オランダの商人。持ち手のついた金属の板に球形のレンズをはめ込んだ顕微鏡を自作し、これを使って微生物を発見した。顕微鏡の心臓部ともいえるレンズも、きわめて精度の高いものを自ら作成し、生涯で500個もの顕微鏡をつくった。驚くべきはその倍率で、残された顕微鏡で最高のものは266倍と非常に高倍率であった。

*6 シュワン(1810-1882)

ドイツの生理学者・動物学者。動物のからだが細胞でできているとする動物の「細胞説」を提唱。また、胃液に含まれる消化酵素ペプシンや神経線維のシュワン細胞を発見した。酵母がアルコール発酵を行っていると提唱するが、猛烈な反対を受ける。

*7 パスツール(1822-1895)

フランスの化学者。化学者でもあるが、生物学、医学など幅広い分野で大きな功績を残した。アルコール発酵が、生きた酵母による生命活動であることを示した。炭そ病や狂犬病ワクチンの開発も行い、医学にも画期的な成果をもたらした。


アルコール発酵とグルテン

パンづくりでは、酵母のアルコール発酵に加え、小麦に含まれる「グルテニン」と「グリアジン」という特有のタンパク質の存在も重要です。

小麦粉に水を加えてこねるとグルテニンとグリアジンが結び付き、細かい網目のような構造をもつグルテンが形成されます。グルテンは弾力に富み、また、よく伸びるタンパク質です。
実際に小麦粉に水を加えてこねてみると、生地にみるみる弾力が生まれ、伸びるようになってきます。グルテンの形成を実感できて面白いです。

実は、パンをつくるにはグルテンの形成が欠かせません。
そのあたりも含め、最後に小麦と酵母の共同作業によるパンづくりをのぞいてみましょう。

※パンの種類などによって細かい材料は異なるので、ここでは大まかな流れをご紹介します。生物のはたらきを借りる作業は気温や室温にも左右され、時間もおおよその目安です。


まず、小麦粉、水、酵母(パン酵母*8)などを混ぜてこね、生地をつくっていきます。きちんとこねて、しっかりグルテンを形成させることが大事です。

*8 パン酵母

とくにパンづくりに使われる酵母のことで、パンに適した酵母が選別されている。家庭のパンづくりでよく使われるドライイーストは、パン酵母を乾燥させて長期保存できるようにしたもので、水を加えることで活動を再開する。

 
次に、こねた生地を25℃~40℃くらいで30分〜60分置きます。これが一次発酵とよばれる工程です。
この間、生地の中で酵母は増殖しながらせっせとアルコール発酵を行い、炭酸ガスとアルコールがどんどん発生します。
発生した炭酸ガスはネットのような細かい網目構造をもつグルテンに包み込まれ、生地は炭酸ガスを含んで膨らんでいきます。

一次発酵がおわったパン生地の中には炭酸ガスの気泡がたくさんできて、最初にこねていたものと比べると大きく膨らみ、ふかふかとしています。


このあと、大きなまとまりになっている生地を1つ1つ食べる大きさに取り分けて形を整え、再び25℃~40℃くらいで30分~60分ほどかけて発酵させます。これが二次発酵です。

二次発酵で生地はさらに膨らみ、このあとオーブンに入れて10分~30分ほどで焼きあげます。
約180℃~250℃のオーブンの中で、生地の気泡は熱によって膨張し、パンはさらにふっくらと膨らんできます。
発酵で生じたアルコールは加熱によって気化し、生地から抜けるので、アルコールで酔う心配もありません。

こうして、ふっくらふかふかのパンが焼きあがります!

ふかふかの焼きたてパン ©︎ Operation Factory /amanaimages

ふかふかの焼きたてパン
©︎ Operation Factory /amanaimages


パンづくりは、酵母の力を借りて行われる、とても時間のかかる作業です。
ゆっくりと時間をかけ、ふかふかと膨らんでいく生地を見ていると、生物のもつはたらきの不思議さを感じます。

普段、何気なく食べているパンは、紀元前から続く人類のパンづくりの長い歴史と、知られざる酵母のはたらきのたまものだったんですね。

新型コロナウイルスの流行が拡大するなか、自宅での時間を楽しむため、パンづくりに挑戦する人が増えているそうです。
人の手が生地をこね、酵母がそれを膨らませる。人類の根源的な営みとも言えるパンづくりに立ち返り、多くの人が再び自らパンを焼くようになった意味を考えずにはいられません。

ときには家でパンづくりをしながら、連綿と続く人類の営み、小麦と酵母の共同作業に思いを馳せるのはいかがでしょうか?

参考文献
『パンの文化史』舟田詠子 著(講談社学術文庫)
『細胞発見物語―その驚くべき構造の解明からiPS細胞まで』山科正平 著(ブルーバックス)
『パンの科学―しあわせな香りと食感の秘密』吉野精一 著(ブルーバックス)
『お店みたいなおうちパン』藤田千秋 著(主婦の友αブックス)
『イチバン親切な やさしいパンの教科書』坂本りか 著(新星出版社)
『BREAD』ジェフリー・ハメルマン 著、金子千保 訳、竹谷光司・井上好文 監修(旭屋出版)


Profile
Writer
中作 明彦 Akihiko Nakasaku

サイエンスライター。中学校・高等学校の理科教員として10年間勤務したのち、世界に散らばる不思議やワクワクを科学の目で伝えるべくライターへ。「前線で懸命に活動されている方々、本当に頭が下がります。どうか無事であることを願ってやみません。また、自宅にいる時間が長くなった人たちもたくさんいらっしゃると思います。つらく耐えるばかりの日々ではなく、少しでもよりよく過ごせるよう、微力でもお力になることができたらと思います」

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