アルツハイマー病がない
世界をつくる(後編)
-真夜中の脳科学-
第三回 西道隆臣
-Till the End of Time♪-
構成・文/理化学研究所 脳神経科学研究センター
第三回 西道隆臣
-Till the End of Time♪-
サイエンス作家の竹内薫さん×理研CBSの脳研究者たちの魅惑の対談シリーズ!
第三回の研究者は、理化学研究所 脳神経科学研究センターにて神経老化制御研究チームを率いる西道隆臣さん。前後編でお届けします。
竹内 近年、脳内のニューロン以外の細胞の役割がどんどん詳細まで分かってきたと聞きました。脳内のゴミ処理を担当しているミクログリアですか、それによってアミロイドやタウが分解されるっていうこともあるわけですか?
西道 あります。ミクログリアという細胞は、アルツハイマー病研究の中ではアミロイドやタウと同じぐらい大事な役者です。ミクログリアはアミロイド斑という異常に集まってしまったアミロイドの塊を食べるんですが、ミクログリアの活性に関係する遺伝子が孤発性アルツハイマー病のリスクに影響しているという研究結果がいくつか出てきています。ただ、実はミクログリアは諸刃の剣で、アミロイドを食べるという浄化作用をやりながら、一方で活性酸素を出したりして周りの細胞に害を与えるんです。これをうまくコントロールできればいいんですよね。
竹内 人工的にでもミクログリアの数を増やして、異常に蓄積したアミロイドタンパク質をどんどん排除すれば良いわけではないのですね。
西道 やっぱり複雑なんですよね。これは現時点では大きなブレークスルーが必要な難しい課題です。ミクログリアのなかでも病気で悪いことをするミクログリアとか、良いことをするミクログリアとか、その一つひとつの細胞の特性をメッセンジャーRNA*1を調べることで同定できるようにはなったんです。 でも本当はそれが実際に脳内に存在する立体的な状態で観察したい。普通、特定の細胞のふるまいを観察するには、その細胞の表面だけに存在するタンパク質を認識する抗体を結合させて、蛍光物質で光らせ可視化するんです。ところがそれぞれの種類のミクログリアを抗体で認識する方法がまだないんです。
竹内 解明を進めるためには、もう一つ革新的な方法が必要なんですね。
西道 そうですね。グリアの研究については、大きなブレークスルーが起これば、新しいことが分かってくるという局面にあります。また細胞死が起こる前の過程の研究も必要です。例えば、アルツハイマー病で最初に細胞死が起こって萎縮が始まる海馬という脳部位は、位置情報を記憶します。だから患者さんにおいては空間記憶に問題が出て、徘徊したりするようになる。ところがアルツハイマー病モデルマウスで調べてみると、脳内のゴミが溜まって炎症が起きていて、それを掃除するミクログリアがものすごく活性化されている状態なのに、海馬のニューロンは死んでいなかった。しかも空間記憶にはすでに異常が出ている。つまり細胞死は起きていないけれど、すでに海馬のニューロンの機能はおかしくなっている、というわけです。
竹内 脳にアミロイドのようなゴミが溜まっているという状態自体が、脳機能に影響を与えているということか。
西道 実は前臨床性アルツハイマー病でも、後半になると主観的な認知能力の低下というのが出てくるんですね。恐らく軽度認知障害を示す5年前とか10年前から始まっていて、その時点ではアミロイドは溜まってはいるんですが、タウは溜まってないし、細胞死も起きてない。でも本人は、最近ちょっともの忘れが多いとか、人の名前が出てこないとかを意識している状態です。アミロイドPETでアミロイドの蓄積を見てみると、大体50代から始まるんですね。だから50歳を過ぎると、私もそうですけれど、芸能人の名前が出てこないとか、アルツハイマー病とまではいかなくともちょっとした兆しっていうのはありますよね。細胞死が起こる前の過程を研究することで、こういう初期のもの忘れ予防法の開発にもつながると考えています。
竹内 日本でのアルツハイマー病に対する研究費が、アメリカと比べてもう桁違いに少ないということを聞いて衝撃でした。日本におけるアルツハイマー病による経済損失15兆円に対して、その研究費は0.04パーセントの60億円でしかないと。これはもっとパーセンテージを上げないといけないですね。
西道 アメリカはこの数年間、アルツハイマー病研究に関しては非常に熱を入れていて、資金もあるので色々な分野から参入してきている。そうなると新しい成果も出ますよね。日本は資金も少なくて、若い研究者が入っていくポストすらない。アルツハイマー病に対する国家的な負担が15兆円と算出されたのが2015年ぐらいのこと(厚生労働省と慶應義塾大学による発表)。恐らく2050年には50兆円になると思います。団塊の世代が80歳を過ぎたらアルツハイマー病の患者数はものすごく増える。だからタイムリミットは本当にあと10年前後しかない。
竹内 もう10年しかないとなると、本当に急ピッチで進めないと。今まさに国をあげてアルツハイマー病や認知症に取り組んで欲しい。
西道 日本で研究するメリットは、遺伝学的な観点ですが、日本が比較的単一民族で構成されているということです。アメリカなどは本当にいろんな民族が混じり合っている。もちろん社会的には人種的多様性はとても大事なのですが、疫学的には遺伝的に多様性がありすぎると臨床研究のデータにどうしてもばらつきが出る。だから遺伝的背景が比較的似ている集団を対象にした日本ならではの研究を行うことはとても意味がある。
竹内 日本は今、国として科学技術への資金が本当に少ない状況ですよね。今回の新型コロナへの対応を見ていても、今までは僕の中では日本って科学技術先進国というイメージがあったんですが、2021年に入ってもまだ国産ワクチンの実用化までは進んでいないという事実。これはかなりショッキングでした。
西道 わかります。日本は過去の感染症、SARSやMARSの際にあまり影響を受けなかったということも影響していると思います。だから今回のコロナを割と甘く見ていたかもしれない。あとは、結核が克服された当時、「感染症の時代は終わった」といった論調があった。そうなる感染症の専門家を目指す研究者は必然的に減りますよね。ワクチン接種にしても、日本はちょっとズルくて、イスラエルやイギリスの接種の状況をある意味、治験として位置付けて、その様子を見ながら接種を進めるという体制でしたよね。
竹内 今回を教訓にして、例えば次に何かパンデミックみたいなものがきたときに、日本はワクチンをいち早く作れる国になるんでしょうか?
西道 物事の良い面を見れば、各国のコロナ感染症対応と比較した時に、日本が科学技術、パンデミックへの対応の分野で後進国になってしまう、あるいはすでになってしまったという危機感が生じたと言えるんじゃないでしょうか。だから感染症研究に対する予算が増える可能性はありますよね。ただ、今や研究開発はグローバルに競争と協調を行うべき時代ですから、研究者が研究費だけに言及することは、視野が狭く発展的ではないと思います。たとえば、今回のコロナウィルスでは、日本でも使用されているビオンテックとファイザーが共同開発したワクチンの有効性が明らかになった時点ですぐにライセンス契約を行い、国内生産を開始するという方法もあった。また、研究を進めるだけでなく、日本発の優れた研究をもっともっと世界に発信し、アピールしていくことも日本の基礎研究発展や各国との共同研究促進のために、今後さらに重要になると思います。
竹内 「攻殻機動隊」というSFアニメがあって、科学技術が発展した世界で人間の脳は“電脳”につながれるんですね。身体もサイボーグとなってまさに不老不死の世界。電脳の世界では忘却はないのでもちろん認知症、アルツハイマー病もない。現実では、イーロン・マスクが展開するスタートアップ事業Neuralinkからの報告を見ていると、人間の脳とコンピューターをつなぐってもうすでにSFじゃないな、未来が急に近づいてきてリアルになったな、という気もします。一方で、加齢や老化を生物として避けられない現象ではなく、ある意味病気ととらえて克服しようという研究も進んでいると聞きます。そんな現実と未来が混ざり合ったような話を聞いていると、一体人としての幸せって何なのか、人間って、人生って何なのかっていうことも考えるんですよね。
西道 私も「攻殻機動隊」見たことあります。脳以外の身体パーツは全て交換可能という設定でしたね。映画「マトリックス」にも影響を与えたそうです。現代神経科学で流行のBMI (brain-machine interface)に通じる「唯脳論」的な考え方に基づいていているのだと思います。
竹内 脳至上主義というか、言語、意識、文化、世界の全てが脳の仕組みを投影したものである、といった考え方ですよね。
西道 そうです。現実はそんなに単純ではないですよね。先ほどお話ししたパーキンソン病の原因物質であるα-シヌクレインもそうですし、アルツハイマー病研究においても、脳の病態や機能が「腸内環境」の影響を受けていることが分かっていますし、生物はもっとホリスティックなシステムです。そして、天才と言われているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは、著書「私は脳ではない」で唯物論的神経科学を徹底的に批判している。人にとっての幸せ、人生の価値や人間という存在自体はいったい何なのか、私のなかにはまだ答えがないですね。「宇宙とは何か?」と同じくらい難しい問いだと思います。個人的には、心、思考、情動、行動、全てが脳から生まれるものであるという神経科学の狭視野性に気づかせてくれたマルクス・ガブリエルが提唱する「21世紀の哲学」の今後の展開がヒントを与えてくれるかも、と期待しているところです。また、哲学だけでなく、倫理学的な視点も同じように大切だと思います。
竹内 脳科学は本来、人文学、心理学、哲学、倫理学をも含む本当に広い学問であり研究分野ですよね。そして、すごく深くて難しい。でも人類としては宇宙もそうですが、本能的に探求したくなる。
西道 まさにそうです。でも研究成果を追いながら哲学書を読むのは正直骨が折れるんです(笑)。アルツハイマー病関連論文は年間約2万報発表されますからね。
竹内 そんなにたくさんの研究が報告されているのですね! アルツハイマー病の研究は難しくとも日々進んでいる。自分のこれからを考えると、老化を克服するのは無理だとして、自分なりに幸せに老いていくことができたらいいなとか。
西道 私なんかは、80歳になったらもういいかな、とか思っているんですよね。そのときが来たら愛する人と一緒にすっと静かに人生を辞することができたら幸せかなって。でもそのときになって相手が嫌だ、私はもっと生きる! とか言う可能性もありますよね(笑)。日本認知症学会で“フレイル”という概念が話題になっていました。直訳すると虚弱という意味ですが、加齢により心身が少し衰えて生活に若干の不具合のある状態、例えばちょっと筋力が衰えて歩くときによろよろするとか、そういう状態のことを指します。身体的側面に加えて、精神・心理的な面、社会的な面がさまざまに影響しあい加齢によるフレイル状態を起こすと考えられているそうです。
竹内 なるほど。加齢や老化での状態を多面的にとらえるといった概念でしょうか。
西道 そうです。そこから何かをきっかけに、寝たきりや要介護状態へと進行してしまうことがある。フレイルの状態で転んだとします。人間って倒れると怖いから、横に倒れてしまうんですが、横に倒れると大腿骨の根っこを折っちゃって、それで寝たきりになっちゃうんですよね。そこから認知症が一気に進んでしまう。そうなる前に総合的な支援を行って、フレイルの状態から健康な状態へ戻していこうという考え方です。
竹内 今からでも具体的な支援策を講じることができそうですね。「アリスのままで」という主人公の言語学者が若年性アルツハイマー病を患う映画がありました。突然若くして劇的に認知機能が落ちてしまうのは、本人も、周りもすごく悲しいことだと思うのですが、加齢に伴うアルツハイマー病の場合、自覚しながら静かにランディングするのも良いのかなと。アニメのように電脳化してアルツハイマー病を完全にないものにできなくとも、アミロイドやタウの溜まり具合を遅くしたりして、何とかふわっとソフトランディングするような、人間らしい疾患との付き合い方をめざした未来でもいいのかなって。
西道 そうですね。聖マリアンナ大学の精神科医・長谷川和夫名誉教授*2は、長谷川式認知症スケールという認知症検査法をつくられたのですが、ご自身が認知症になられた。それでもすごく知的で穏やかなんですよね。認知症になったから何もできないというわけではないんです。もちろん個人差があるので、認知症になって暴力的になるケースもありますから、そういうケースをなんとかする必要はあります。学会での報告などを見ていても、特に医学系の研究者には、発症後の精神症状をいかにコントロールするか、いかに穏やかな状態、認知症だけれども幸せな状態にするか、というところに着目して研究されている方もいます。
竹内 いつまでも記憶があり続けるのもどうなのかな、もしかして少しずつ忘れていくことも幸せなのかも、とか。この度合いをうまくコントロールできたら、それも素晴らしい克服の仕方の一つなのかなと思ったり。昔の嫌なことだけ忘れて、楽しいことだけ覚えていられれば最高ですけど(笑)。
西道 普通は逆ですよね(笑)。私はよく寝ている時に辛かったことを思い出して、飛び起きることがあります。確かにうまい具合に忘れて、良い記憶だけで長生きするのも幸せの一つの形ですね。現在、「アルツハイマー病を克服する」という共通の志を持つ500を超えるグループと共同研究を行っています。その結果、次から次に予想外の成果が得られることに加えて、国境を越える友情が生まれました。これは本当にありがたいことであり、研究の場を与えていただいた理研とそこへ導いてくれた故・伊藤正男初代脳科学総合研究センター長に心から感謝しています。アルツハイマー病を完治させる、完全に予防する、というのはもちろん最終ゴールですが簡単ではないのは確かです。患者さんとそのご家族の苦悩を少しでも減らして、その人なりの幸せな人生を全うできる世界に近づけるよう、これからも研究を続けていきます。
・質の良い睡眠
睡眠は脳内のゴミの除去に重要という報告が。いい睡眠は脳も体も回復させる
・歩く
毎日5000歩から10000歩を目安に。ただし、年齢や個人差あり。60歳を過ぎたら少し減らしてもよい。一番大切なことは、膝・股関節等を痛めないこと、怪我をしないこと。寝たきりになると、認知能力低下が一気に進行する場合あり
・有酸素運動
水泳などは心身をリラックスさせるのでおすすめ
・肥満を避ける
塩分、脂っこい食事は少なめに。血管の老化は血管性認知症とアルツハイマー病双方のリスクを上昇させる。因果関係は明確ではないが、中年期の肥満がリスクを上昇させるとの報告あり
・高血圧を避ける
肥満とあわせて、血圧の管理も大切。高血圧も血管性認知症とアルツハイマー病双方のリスクを上昇させる
・糖尿病予防
糖尿病はアルツハイマー病のリスクを上昇させる。ただし、I型の場合や遺伝的に発症しやすい場合は、適切な治療が必要
・適度なお酒
1日に1~2合までの日本酒やワインは比較的リスクを下げる効果ありとされているが、臨床医によっては禁酒を勧める場合も
・ピアノなどの楽器の演奏
手先を使う作業は認知症予防になると言われている
*1 メッセンジャーRNA
生物の設計図であるDNAから複製された、特定のタンパク質に関する遺伝情報の「写し」にあたる分子。このメッセンジャーRNAをリボゾームという細胞小器官で読み取って、タンパク質が作られる。
*2 「認知症になることができた」息子が語る父・長谷川和夫の姿
https://nakamaaru.asahi.com/article/13736317
理化学研究所 脳神経科学研究センターにて神経老化制御研究チームを率いる。
宮崎県出身。少年時代は大工工事の観察が趣味。高校時代にアメリカニューヨーク州に留学し1学年飛び級することに。東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了、薬学博士。
趣味は読書とフードのついたパーカーのコレクション。
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猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
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